椴法華村は明治二年八月十五日から茅部郡に属し尾札部村の枝郷であった。このため村用の村役人や諸願届出の必要な村民は、本村である尾札部村かあるいは函館にある開拓使の役所へ出向き、また明治五年二月からは函館支庁砂原出張所へ出向かなければならず、しかも冬期間や荒天時の際は海路が使用できないため、川汲峠を越えたり陸路函館まで出て、それから砂原村への道をとるなど大へんな苦労があった。
このような状況の中で次の記録にもあるように、椴法華の年寄は小安・戸井・尻岸内の村役人とともに、戸井出張所へ年始言上に出向くことが慣例とされ、機会あるごとに本村(尾札部村)の所属する砂原出張所とは別の戸井出張所に所属するように運動されていた。
『明治六年 戸井往復』(北海道蔵)
去五日小安村・戸井村・尻岸内村・椴法花、名主・年寄一同年始為二御礼一罷出候ニ付定式之通祝辞相受申候依レ之此段申上候也。
第一月十日 高橋 六蔵印
民事係御中
この事はやがて官側の認めるところとなり函館支庁杉浦誠から砂原出張所及び戸井出張所へ、明治六年一月二十日で次のような書面が出され、これを受けた戸井出張所高橋六蔵は同月三十日付で椴法華郷を以後所轄することを拝受している。
『明治六年 砂原往復留』 民事課(北海道蔵)
(朱)中判官印(杉浦) (赤)民事掛 印井上
印酒
書面尾札辺村枝郷椴法花之儀は尾札部村より海路三里隔風浪積雪之節は往復難相成ニ付戸井村詰高橋六藏へ所轄被仰付尾札辺村枝郷古部迠は砂原詰渡辺政方へ所轄被仰付候義は兼而詞令ヲ以被仰渡候義故向後諸御布告並觸達、諸見分願伺届、諸御収税等迄戸井村詰ニ而取扱可申旨改而被仰渡右之趣別紙之通兩詰合江申達可然哉此段相伺候也。
一月廿日
戸井村詰 高橋 六蔵
尾札辺村枝郷椴法花之義向後諸布告並觸達諸見分願伺届収税等都而取締向取扱可申候事
一月廿日
砂原村詰 渡辺 政方
尾札辺村枝郷椴法花之義兼而戸井村役場高橋六藏へ所轄申付有之候ニ付向後於同所都而取扱候条人別其外収税等迄取調同所へ可達候事
一月廿日
『明治六年 戸井往復』
尾札部村椴法花郷向後所轄之辞令拝受仕候也
第一月三十日 高橋 六藏印
民事懸
御中