亀田郡編入運動(一)

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 かくして椴法華村・尻岸内村・戸井村・小安村は明治十一年を期して、区務所が亀田村に設置されている亀田郡への編入を挙げて陳情することになったのである。
 次に明治十一年三月椴法華村・尻岸内村・戸井村・小安村の郡村組替要求に基づき、開拓使函館支庁が東京書記官と大政大臣三条實美宛に出した書面を記し、当時の事情を知る手がかりとすることにする。
 
   明治十一年ヨリ十三年ニ至ル
   郡村組替一件書類  (北海道蔵)
  第二百二十一号
   東京                            凾館
    書記官                          書記官
   渡島茅部小安村外三ヶ村ヲ亀田郡ヘ組入等之儀ニ付別紙元第廿九号伺書差出候右ハ兼テ御承知之通椵(ママ)法華村ヨリ尾札部村迠之間、凡三里(但シ陸里ナリ)懸崖絶壁陸路ヲ阻隔シ從来渡海ニテ通路致來候得共所謂惠山岬ノ傍ニテ常ニ風波嶮悪處候ニテモ天気都合ニ依テハ兩三日或ハ四五日モ風待不致候事テハ渡海難相成ニ付亀田郡石崎村迠立戻リ川汲越山道ヨリ通行候儀間々有之冬季ニ至リテハ別テ風波悪シク殊ニ川汲越山道モ雪害有之不得止札幌本道ニ出テ森村ニ至リ迂回候程之儀モ有之然處該區區務所ハ現今森村ヘ設置有之公布配達人民願届等百般之事務ニ至リテモ甚タ不便ヲ極メ候而己ナラズ地形ニ於テモ亀田郡ヘ組入候方至當ト被存且該村人民ヨリ出願之趣モ有之伺出候儀ニテ客歳内務省乙第八拾三号御達之趣モ有之候得共前陳之事情御洞察極至急御許可相成候様御取計有之度太政官御伺案始布告達案及略圖共相添此段及御依頼候也。
    明治十一年三月廿三日
  追テ本文御許可之上ハ實地ヘ就キ經界相定メ地圖相添御届之積ニ候此段申添候也。
 
    郡村組替ノ義ニ付伺
   當使管内十八大區渡島茅部郡ノ義ハ西ハ膽振國山越郡ニ連リ南ハ渡島國亀田郡ニ接シ東北海ニ面シ沿海三十四五里ニ亘り郡中山岳主壘村落ハ沿海ノ外絶テ無之就中同郡椴法華村ト尾札部村トノ間懸崖絶壁海ニ臨ミ陸路不通同村ヨリ東南尻岸内戸井小安ノ三村ハ曲折シテ亀田郡ノ東端ニ接續スルヲ以テ該村ヨリ凾館其他ヘ往來スル皆此路ニ寄ラサルヲ得ズ前四ヶ村ノ人民區務所ノ往復等不便を極メ頗ル困苦ノ事情モ有之地形ニヲイテモ茅部郡ニ屬シルハ不都合ニ付前四ヶ村ヲ割キ亀田郡ニ編入候様仕度御布告案相添此段相伺候也。
   明治十一年三月二十三日
   太政大臣三条實美殿                           開拓長官 黒田清隆
 
 以上のように凾館書記官から東京書記官宛に伺書が出され、更に開拓長官黒田清隆から大政大臣三条實美に伺書が提出されたが、東京からの返答は次のようなものであった。
 
   明治十一年ヨリ十三年ニ至ル
   郡村組替一件書類
  凾第弐百八拾五号
   凾館                          東京
    書記官                         書記官
   渡嶋茅部小安村外三ヶ村ヲ割キ亀田郡ヘ組入ノ義長官殿ヘノ伺書添第二百二十一号御照會ノ趣致了承候右ハ組替候義實際可然候得共先般地方官會議ニ於テ大小区ノ名稱ヲ廃シ郡町村ノ旧稱ニ復シ候事ニ決議相成右御發行ノ上ハ當管内ニ於テモ追テ更正可致筈ニ付其節一時ニ組替候ヘハ上申布達等ノ手數モ相省ケ其迄ノ間從前ノ通据置候迚實際格別差支モ有之間敷哉ニ被相考候ニ付伺書留置一應及御協議候条實際差支モ無之候ハ、追テ更正ノ節一時ニ組替候様致度此段申進候也。
   十一年五月廿四日
 
 茅部小安村外三ヵ村の亀田郡組入の件は既に地方官会議で大小区画制を廃止して郡区町村制にすることに決定しており、郡区町村制の実施の時に、同時に改正しては、どうか、この間特に支障となるべきことも無いと考えられるので従来通りとしたい、これに対する函館側の意見はどうかと解答を求められている。函館書記官は、五月三十一日付で東京書記官の回答案に従うことを約束している。
 明治十二年七月二十三日約束通り、『郡区編制法』により大小区制は廃止され、郡区役所が設けられ戸長役場が設置されることになったが、小安村・戸井村・尻岸内村・椴法華村が実際に亀田郡に編入されたのは、それより約二年後の明治十四年七月二十九日のことであった。この間に於ける住民の不便はいかばかりか、計り知れないものがあった。
 
  函館支庁布達
    第四十八号
   当庁管下渡島国各郡村ノ内左ノ通分割組替候条此旨布達候事
    明治十四年七月二十九日
     函館支庁開拓権少書記官有竹 裕
  渡島茅部小安村、戸井村、尻岸内村、椴法華
      右四ケ村 渡島國亀田郡へ編入