長崎俵物の買入れは、天保九年(一八三九)から普請役が会所役人に替わって行ったが、成績不良のため、天保十二年(一八四一)から再度、長崎俵物箱館会所がこれを取扱うことになった。会所の下には問屋があり、問屋は昆布の産出する各地方からの昆布を集荷し買入れを行った。箱館では長崎屋(佐藤)半兵衛が長崎俵物問屋を務めている。
『新北海道史第二巻通説一』によれば、長崎俵物の買上量について次のように記している。
長崎俵物として買い入れられる昆布は、文化十年まで一か年定弐買入、志苔昆布三千石であったが、翌年より五か年間同地産長折昆布千石、駄昆布千石、計二千石となった。ところが文化十四年、長折昆布は中国側に需要がないので、三石昆布に替えることにしたが、志苔の昆布業者の願いにより、文政三年から長折昆布五百石、三石昆布五百石、駄昆布千石を買い上げることに決めた。天保三年には、三右昆布が払底したうえ、長折昆布の需要があったので、三石昆布を廃して長折にしたが、天保六年ふたたび文政三年の昔にもどした。昆布は以上の三種を中国側の需要に応じて買い入れなければならなかったので、俵物役人の最も苦心したところであった。