最高品の鱈が椴法華で漁獲されたことは前に述べたが、これらの大部分は船で箱館へ運送され、更に内地へ積み出されるか、又は直接漁獲地の椴法華から内地へ送られていた。
一度箱館へ送り出した場合、箱館において積み荷の検査を受け税を徴収されたが、漁獲地である椴法華から直接に内地へ送る場合、箱館の問屋を通じ「沖の口番所」へ直帆願を提出し沖の口番所の許可を得て直送地への出航を許される仕組みであった。
椴法華から内地へ向け直接新鱈を送るため積荷改めについての沖の口番所へ願った文書が残されているので次に記することにする。
元治二丑年五月請書付(函館図書館蔵)
沖之口御番所
乍恐以書付奉申上候
一、龍神丸 酒井左衛門尉様御手船
九人乗 陣屋彦次郎
右之船椴法華村におゐて新鱈積入此節手仕舞ニ相成候事態飛脚ヲ以テ申参候間何卒御役人様御改被仰付被下置度乍恐此段以書付奉願上候以上
丑正月八日 浜田屋兵右衛門印
沖之口御番所様
前書之通相糺候処相違無御座候間奥印仕候 以上
問屋取締役見習
蛯子友輔印
なお、六ヶ場所(ヲヤス・トイ・シリキシナイ・ヲサツベ《椴法華は尾札部領》カヤベ)で漁獲された鱈の内地直送は、前松前藩時代から許可されていたが、他地方においては幕府直轄後になってようやく塩鮭・塩鱒・魚油・搾等の直送が許されるような状態であった。