恵山硫黄鉱山の歴史は古く二百年も以前からその存在を知られており、採掘がなされていたようである。恵山硫黄鉱山に関する一番古い記録と考えられる『蝦夷旧聞』によれば、「明和元年七月下旬、硫黄の気発動して工夷多く死亡せり」と記されている。この記録により明和元年(一七六四)頃恵山では、アイヌ人労働者によって硫黄採掘がなされていたことがわかる。文中に「硫黄の気発動」とあるのは恵山の小噴火でもあったものであろうか。
この事から約二十年ほど後の天明三年(一七八三)工藤平助によって著わされた『赤蝦夷風説考』によれば、恵山の硫黄明礬採取について次のように記されている。
一 松前城下より東廿五里程先、箱館と申所諸國より廻船入込候所にて、右の所より東に、エサン、と申大山有、是は銅山にて硫黄明礬の類も出候所也。此所箱館の町人白鳥新十郎と申者先年より商買掘いたし、近年相休候。
『北海道史第一』によれば、
天明三年(一七八三)より四箇年間毎年運上金三十五両《但し天明三年は願の上二十両》にて福山の藤七・理三郎の二人採取の許可を得たること天明四年(一七八四)の御収納取立目録に見られる。
と記されている。
『福山秘府古今訴状部』によれば、
白鳥新十郎が尾札部領の請負人となるのは、宝暦十三年(一七六三)六月からであり、多分この頃恵山硫黄鉱山は白鳥新十郎によって開発され、明和元年(一七六四)硫黄の気発動の事故等により中止され、後にあるいは以前の場所と異る所であるかもしれないが、天明三年(一七八三)前記の藤七・理三郎によって硫黄採掘がなされるに至ったものと思われる。なお当時の恵山硫黄の採掘権は松前藩が持っており、その場所から上る運上金は藩主の収入となっていた。