明治九年一月尾札部村より一村独立し椴法華村となり、更に明治十三年一月には戸長役場、四月には小学校と郵便局などが開設されるなど文明開化の波が押し寄せつつあったのであるが、この頃の商工業の様子はどのようなものであったろうか。
明治十三年一月の『兵要物件及風土表原書壱』は椴法華村における職業従事者、その他について次のように記している。(要約)
一 農商杢鍜(ママ)工及漁人舟子人員
農 五人 商人 一人
漁人 七十八人 木工 ナシ
舟子 ナシ 杣夫 十人
鍜(ママ)工 ナシ
次に『明治十四年後期分亀田郡各町村物産表』により、当時の職業戸数と労賃・その他物価等について記すことにする。(要約)
椴法華村
戸数 七十九戸
人口 六百拾八人 [男三百二十六人女二百九十二人]
商 二戸 漁 七十二戸
大工 一戸 鍜工 一戸
一日ノ賃 大工 金五十銭
木挽 金五十銭
同雇夫 金四十銭
玄米一石 平均十円六十八銭
酒 一石 平均十四円十三銭八リン
味噌一石 平均九円六十三銭三リン
醬油一石 平均十六円
塩 一石 平均二円七十一銭三リン
需用品買入高
玄米 四百四十二石 醬油 二石
酒 三十石四斗 塩 百八十一石
味噌 二十二石一斗
この他明治十六年六月の「戸口及諸物品調」によれば、旅籠料一日分、三食付で、上等三十五銭、中等三十銭、下等二十五銭と記されていることより、当時椴法華村に旅籠屋(旅館)が在ったことが知られる。
次に以上の資料を比較検討して、当時の商業の様子を探ってみることにする。まず明治十三年と同十四年の戸数を比較してみると、(明治十三年は人員・十四年は戸数)その記された内容より、商業・大工・鍛冶の戸数がそれぞれ一戸ずつ増加していることがわかる。
また明治十四年の資料では、玄米・酒・味噌・正油・塩の価格と需要品買入数が記されていることから、生活必需品であるこれらの品々が他地域から移入されていたことが知られる。さてこれらの品々はどのような方法でどこから移入されて来たものであろうか。
まずその第一は、海産物買入れの為椴法華港へ来航する船に、米・味噌・醬油等を積み込んで来て、椴法華の商店へまとめて引き渡すか、あるいは自分で販売する者があった。このような船には、函館船や津軽船などがあり、青森県大澗町の元町長山根談によると「自分の先祖山根吉三司は、明治十年頃から同十九年にかけて、大澗港より米・味噌・塩を積み入れ椴法華に向かい、販売後鰯粕・昆布等を買い入れ、十月から十一月頃大澗港に帰航した」と云うことである。
第二の方法としては、主として函館の海産商が仕込み物資としてこれらの品々を椴法華村にもたらしたものである。
次に明治十九年、北海道庁理事官青江秀(ひいず)の著『北海道巡回紀行』に当時の茅部郡における仕込みの様子が記されているので、参考として記すことにする。
茅部郡各村ハ概シテ商売ナク、其収獲ノ海産物販売ノ方法ハ漁期ニ先立チ函館地方及他処ヨリ金員或ハ需用ノ米穀器具等ヲ借入シ、漁獲ノ後海産物ヲ以テ精算返済シ不足アレバ次の漁期又ハ翌年收獲物ヲ以テ之ヲ償フ習慣ナリ。故ニ連年薄漁ニシテ収獲物少量ナレバ負債ニ苦シム者多シ。
砂原村以東ノ各村ノ如キハ、函館地方ヨリ時々小船ヲ以テ日用品ヲ送リ来リ、少量ノ収獲物ト交換スルコトヲ常トス。故ニ直輸販売スルコトナシ。而シテツネニ薄漁ナレバ金融殆ド閉塞ス。
・村内の様子
明治十八年十二月二十四日 函館新聞
椴法華村の近況
同村は函館を距ること東の方十四里餘にして西ハ茅部郡尾札部村と隣りをし、東は惠山崎、南ハ根田内及び古武井と恵山の山脈を以て界を為し、北の一方は海に面し遠く海洋に突出したる一漁村なり戸數凡そ百、人口六〇〇餘にして僻村なりといえども戸長役場あり学校あり、商家には、荒物店、小間物店、旅人宿、理髪床、飲食店等もありて格別不自由を覚えぬ。(以下略)
その他、椴法華村で酒類販売が許可された時の資料が残されているので参考として記すことにする。
酒類販売の許可
明治九年分、山越内・久遠・遠井・當別・森・分署文移録、 函館支庁租税係
酒類営業免許ニ相成候日限
(椴法華関係部分のみ)
明治九年一月廿四日椴法華村藤枝亀太郎
〃 佐々木菊松
〃 辻初弥
〃 田中孝之助