椴法華において、いつごろから駅逓制度が実施されたものか詳かではないが、天明六年(一七八六)の『蝦夷拾遺』によれば、「シリキシナイ、ヲサツベにそれぞれ運上屋一戸」と記されていることから、このころすでに駅逓制度の初期のものが存在していたものと推定される。
またこの約十年後の寛政十年(一七九八)の『蝦夷雑志』には、「トトホッケ、此所三里舟渡アリ」と記され、同年の『松前行程記』には「トトホッケ泊」、更に寛政十二年(一八〇〇)の『アツケシ出張日記』に「小薩部、御用宿支配人、源治郎、椴法華番人武左衛門、根田内、番人、弥右衛門、尻消(ママ)内(尻岸内)御用宿、支配人、官兵衛」の記事が見られる。これらのことからこのころ尾札部・尻岸内の運上屋の中継所として椴法華・根田内の番屋が設置されており、これらの運上屋や番屋は、簡単な荷物の運送・宿泊・手紙の継送などの仕事をしていたものと推定される。
しかし、このころの会所や番屋は元来駅逓のために設置されたものではなく、その地域の行政事務が重要な仕事とされており、昼間の場合などは御役所のお触れ又は特に急を要する書状以外は、官吏が別の公務で出向く時や旅行者に託されて運ばれるなど、今から考えると実にのんびりしたものであった。またこのように呑気な通信ではあったが、その送達範囲は意外に広く、蝦夷地の海岸線及び内陸部の主要路そして本州まで及んでいたようである。