椴法華と近村の海運

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 椴法華村と近村との交通状況はどのようなものであったろうか。
 後松前藩の時代と同様椴法華尻岸内の間は陸路と海路との両方があり、陸路はかなり整備され馬が通行可能となっていたほどである。しかし尾札部との交通路は未だ海路のみしかなかった。
 安政四年(一八五七)三月箱館奉行村垣淡路守蝦夷地巡察の途中、尾札部椴法華間を通過したが、この時もまた搔送りが行われている。
 
   安政四年  公務日記
   三月廿日 快晴
  一、今朝五時二分廻尾札部出船三里四時二分前椴法花江着船同所ニて昼休夫よりエサン山イワウ見分打越ニリ八時前根田内村江着五リ
   尾札部より船ニてカキ送リ。シシを廻り岩石之出崎を廻る洋ニて椴法花村より直ニ道々己しから 左ニイワウ山稼一所有專烟立登る下り切て根田内渡辺向ニ南部大畑間近くミゆる。
 
 なお安政三年(一八五六)搔送り船の船賃は左記のようなものであった。
 
   福島屋文書第六十七 産物並調進抜書
                (函館図書館蔵)
  椴法花より古部迠 持荷一艘船賃弐朱
  古部より木直迠  磯船一艘同壱朱
  古部より尾札部迠 持荷一艘同三朱
  古部より尾札部迠 磯船一艘同二朱