明治末ごろから昭和初期にかけて繁栄を誇った下海岸線の海運業も昭和七年三月の下海岸線道路の開通により急激に衰退の一途をたどることになった。
昭和八年六・七月の函館日日新聞及び函館毎日新聞から船便の広告をひろってみると、次の三社五隻の船が毎日あるいは一日おきに椴法華に入港していることが知られる。
函館日日新聞 (昭和八年六月九日)
新家丸、十日
尻岸内・女那川・古武井・根田内・磯谷・椴法華・古部・白井川・木直・見日・尾札部・川汲・板木・臼尻・熊泊・磯谷行
馬場回漕店
荷受所東濱町安田銀行前
電話三六七七番
函館毎日新聞 (昭和八年七月二十三日)
陰下海岸定期航路
ラヂオ備付客船
鐡船 昭星丸 尻岸内・女那川・古武井・根田内・磯谷・元椴法華・古部・白井川・木直・見日・尾札部・川汲・板木・臼尻・熊泊・磯谷行
第二 忠福丸 日浦・尻岸内・女那川・古武井・根田内・磯谷・元椴法華・椴法華行
函館市豊川町 函青汽船株式會社
事務所 電話二三二八番
荷受所 仲濱町スコット倉庫
道廳命令函館・鹿部線
渡島丸 三・五・十・十三・十五・廿
共益丸廿三・廿六
毎日午後十二時発
戸井・日浦・尻岸内・女那川・古武井・根田内・椴法華・古部・白井川・木直・見日・尾札部・川汲・板木・臼尻・熊泊・鹿部行
函館市東濱町渡島商船株式會社
荷受所 水上署岸壁電話二七〇番
自動車開通直後は前に記したような状況であったが、昭和十年には定期船としては、隔日運行の道庁命令航路(函館・鹿部線)として、渡島商船株式会社所有の渡島丸が運行し、民間では函青汽船株式会社が運行するのみとなり、乗船客の数はぐんと減少したといわれている。(積荷の多い盛漁期のみ臨時便入港)なお昭和十年ごろの函青汽船の運行状況を「椴法華村役場恵山資料」は次のように記している。
函館出航午後十一時、椴法華着翌日午前五時、天候により変更あり、乗船賃及び艀賃合わせて片道一円五十銭以内
その後の水産物の減少や陸上交通の発達は、益々海運による貨物・乗客の減少をまねき、昭和十四年四月の函館新聞が報道している次のような状況となった。
昭和十四年四月五日 函館新聞
道庁命令航路 函館鹿部間
金森商船本線は海運交通の利用著しく減じて来たので船舶の経済を図るため使用船百屯を五十屯以上に減ずることにした。
このような状況の中で昭和十八年ごろまで細々と運行されたのであるが、戦争の激化に伴ない昭和十九年ごろにはアメリカ潜水艦の出没などもあり、遂に歴史ある回漕業は中止のやむなきに至ったのである。