椴法華は今から約三百年以前より、良き澗のある場所として知られており、その後恵山沖を航行する船により、嵐をさけるため水・食料補給をするため、搔送り・船の中継をするためなどに利用されていたようである。
『津軽一統志』の寛文十年(一六七〇)の記録によれば「やしろの浜(やしろ浜と記すものもある)能澗有」の記事がみられる。
また『蝦夷商〓聞書』元文四年(一七三九)頃の記録によれば「一、トトホッケゟヲサベ迠十里ハカリ、此間蝦夷村沢山ニ有、昆布大出所也、新井田兵内殿御預リ、運上金壱ケ年ニ四拾両宛、箱館者共運上ニ申請、二百石ハカリ之小船ニ而度〃箱館江通江申候」と記されており、一七三九年頃には場所請負人が二百石くらいの船でトドホッケと箱館の間を往復していることが知られる。椴法華からは水産物を箱館からは食料・漁具・日用雑貨品等を輸送していたものであろう。
前松前藩時代の終りごろ寛政十年(一七九八)の『蝦夷雑志』によれば、「トトホッケよりヲサツベまで三里、この間舟渡あり」と記されており、椴法華と(現在の元村付近)とオサツベまでの搔送り船が設置されていたことが知られる。この時代椴法華から尾札部までの間は、陸路がなくこの間の通行は総べて海路にたよっていたのである。