明治時代の伝染病

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 つぎに明治時代に出された医療関係の法令と流行した主な伝染病の中から下海岸地域と関係深いと思われるものを記すことにする。
・明治八年二月二十三日、函館支庁、天然痘予防仮規程を定める。
・明治九年五月、函館・福山・江差に天然痘流行する。
・明治十年九月、西南戦争従軍の二名の屯田兵が帰途中の船中でコレラとなる。このため九月以後十一月にかけて、函館にコレラ流行し、函館の住民の中に、尻岸内椴法華方面へ避難する者があった。
・明治十二年、函館に入港した船からコレラが発生し七月より函館に流行、その後十月末まで全道各地で流行する。(全道の患者数四百九十九名・内死亡者三百十五名)
・明治十五年八月、コレラ流行、本村でも患者が発生し、村内の家々では消毒のため硫黄を焼くと言い伝えられている。(明治十五年か十九年の流行か、はっきり区別できない。)
・明治十八年、函館県・長崎県下にコレラ流行につき、清潔法・摂生法を諭達する。
・明治十九年七月十三日、函館にコレラ発生九月天然痘流行、このため函館より下海岸地域へ避難する者あり、しかしこのように安全であろうと避難先に選ばれた下海岸地域もコレラに汚染されていた。
 すなわち「山根家追想録」(現在子孫が青森県野辺地町に在住)によれば、
  さき(山根吉三司妻)ハ明治十年頃夫吉三司ト共ニ北海道ニ移住シ亀田郡椴法華村ニ住シ商業ヲ営ミ開拓使ヨリ学事係ヲ仰付ラレ公職ニ就キ家聲漸ク振エタルモ明治十九年全国コレラ流行ノ際夫吉三司及二男二女ヲ失ヒ長男吉三郎ノ家ニ入リ四十一年八十一歳病死セリ
 と記されており、同家の言い伝えによれば、この時椴法華村ではもっと多数の人が亡くなったと伝えられている。
 
    近村の様子
 当時の『函館新聞』より伝染病の記事を(要約)拾ってみると次のようである。(残念ながら椴法華村の記事は残されていない。)
  ・明治十九年八月四日付
   小安村コレラ、昨日亀田郡小安村に男一人類似コレラに罹りたるよし亀田郡役所より其の筋へ通知あり
  ・明治十九年八月八日付
   小安村コレラ、亀田郡小安村○○番地、○○母は、昨日午前一時類似コレラに罹り療治中の旨其の筋へ通知ありたり。
  ・明治十九年八月廿四日
   同村及び支村ハ家々の周圍及び入口の戸へ石灰を塗り付け恰も白壁の如くなりたり一体(いったい)石灰ハ雪隠股は流し下又ハ芥溜(ごみため)等不潔の場所へ地面の見えぬくらゐに厚くまくハ尤(もっと)も適当の良法〓(な)りと戸板(といた)坏(など)へぬり付け又は家屋へ周圍坏(など)へおまじないの如くふりかけたりとて其詮(そのせん)あるものにあらすよくよく注意すべきことなり。
    明治十九年十月五日付
    尾札部村新患者女一人
  ・明治十九年十月廿四日
    尾札部村新患者男一人
  ・明治十九年十月廿六日
    さる廿三日亀田郡根田内村コレラ新患者、男二人、女二人、尻岸内村男二人、死亡女一人、同廿四日、根田内村女二人、内一人死亡、古武井村男二人
  ・この時全道でコレラ患者二千九百四十一名内死亡者二千百五十九名、天然痘患者六千四百六名、内死亡者二千二百六十五名
  ・明治二十二年一月十六日、庁令により種痘規則施行細則公布
  ・明治二十三年六月以来インフルエンザ全道に流行、この月下旬に最も流行
  ・明治二十五年、全道に天然痘流行、天然痘患者七千七十七名、死亡者二千五百五十七名
  ・明治二十六年、前年より引き続き天然痘流行、患者二千四百五十四名、死亡者九百五十四名
  ・明治三十年、天然痘全道的に流行、患者千二十三名、死亡者二百九十八名
  ・明治四十四年二月、元村にジフテリヤ発生、一名死亡。九月、矢尻浜に腸チフス発生。