ロシアの襲来

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 文化三年(一八〇六)九月、フォストフ等は樺太クシュコタンを掠奪し、運上屋を焼く。この時は冬期に向うため交通が杜絶え、事件について松前に連絡できなかった。文化四年(一八〇七)春箱館奉行はこの報に接し、直ちにこの事件について幕府に報告したが、幕府はすみやかに、津軽藩は宗谷・南部藩は箱館へ出動するように命じた。
 その直後の同年四月、ロシア船がエトロフ島のシヤナ会所を襲い、会所を焼払い、守備の南部藩兵及び津軽藩兵を追い払ったという報が五月に到来した。このため箱館奉行羽太正養は、この報を知るや直ちに幕府に報告した。幕府は南部・津軽の両藩に増兵を命じ、秋田・庄内の二藩にも臨時の出兵を命じた。ちょうどこのような事件が頻発していた時、我が椴法華の沖合にも外国船らしき船が出現したわけであるから、大騒動となったようである。村人の心中はいかなるものであったろうか。