ヲビルネップ事件の興奮もさめやらぬ天保二年七月二十八日、(一八三一)箱館内澗町戸沢屋孫右衛門手船、日吉丸四百七拾八石餘積十人乗が、箱館から東蝦夷地ユウフツ場所へ行き、帰途内浦湾において(恵山沖と記された記事とエトモ領ワシベツ沖と記された記事とがある)外国船により大砲攻撃を受け、帆柱に一弾を受け〓走不能となり脱出、その後外国船に積み荷を掠奪されるという事件が発生した。
この事件について松浦武四郎は『初航蝦夷日記』の中で、猿田平藏の手紙(七月十三日から出現した異国船警備のため派遣された松前藩兵。荷物を運ぶべく箱館よりモロランへ向け輸送中事件を知る)を引用して次のように記している。
当廿八日箱館湊出帆場所ヤムクシ内へ下り候船、惠山沖ニ而右異国船より大礮打懸られ帆柱を砕かれ申候間、元船乗捨橋船ニ而逃去候処船中荷物奪取られ申候由。是は定而請負人戸沢屋孫右衛門手船日吉丸より沖之口届書御座候哉ニ奉存候右人物は皆毛織之装束に御座候。何れ西洋人之由御座候。
またこの事件と同一事件のことを記したものと思われるが、事件の発生場所をワシベツ沖と記しているものに、『通航一覧続輯』の記事があるが、多分当時のうわさと正式届出の違いであろう。事件内容の比較参考資料として次に記してみる。
同年九月廿五日志摩守御届
私領分東在箱館内澗町戸沢屋孫右衛門手船日吉丸沖船頭虎吉代リ船頭第吉増水主共十人乘組松前山田屋文右衛門出店箱館弁天町山田屋善吉雇船ニ而、東蝦夷地ユウブツ場所ヘ産物為積取、当七月廿日箱館出帆同廿二日ユウブツヘ着船、荷物積取同廿六日夜同所出帆之所、同廿八日夕七時頃エトモ領之内ニ而異國船ニ出合、凡百間位ニ近寄候節、右異國船より大筒打懸候ニ付、日吉丸船中一同橋船ニ乗移漸逃去候處、其後鐵砲之音も無之、異國船も沖之方江〓行及暮帆形も相見不申候ニ付、逃去候橋船ニ而日吉丸ヘ乘移船中相改候處、被奪取候品々等御座候ニ付、箱館ヘ帰着之上同所江差置候家來共右之始末申達候ニ附、早速取調假口書並右紛失之品書付、私居所ヘ相達候間、箱館ニ而取調之儘八月三日先御届申上候得は、尚又私居所ヘ日吉丸船頭水主共不残呼出、再吟味仕候處右日吉丸江戸四日市、音羽町伊勢屋伝右衛門と申者之手船之序、當七月上旬同所出帆之砌、浦賀御関所より相渡候船切手御座候處、右船箱館ヘ着船不日同所戸沢屋孫右衛門江譲船ニ相成、右ニ付船切手之儀は当秋末浦賀着船之節相納候心得ニ而、船中掛ケ硯入置候処其儘被奪取候趣、其外紛失之品々も別紙申出之通ニ而、船切手並紛失品之内も最初於箱館取調候節申達落等御座候ニ付、則再吟味仕口書並被奪取候品書共相添此段御届申上候、以上
九月廿五日 松前志摩守