明治六年、村の役職であった小頭・年寄が廃止されて村用掛と改称された。従来の小頭にあたるものに総代などの変遷はあるが、村用掛は、その地域の事務の用一切を取り仕切った。掛は懸り、係とも書かれている。
明治一二年から一三年にかけて村々に戸長役場が設置されると、筆生が配置になって、村用掛の事務は役場に引き継がれる形となった。公的な村用掛はなくなったが、のちの部落事務所・町内会事務所のように、その地域と役場との交渉事務を任される書記にあたる役はそれぞれの地域に引き継がれていき、村用取扱い・村用事務所の名は村人の慣用として長く用いられた。
明治一八年、桜庭郡長の茅部山越巡回日記の木直と古部の記録の中に「総代 学務委員・伍長・村用取扱」と村役職者の順列にその名をとどめている。
明治六年一〇月の畑反別書上小前連印帳(北海道所蔵)によれば、茅部山越二郡の副戸長・村用掛の名は次のとおりである。
(小前連印人数) 副 戸 長 村 用 掛
茅部郡小安村 (一三名) 飯田 藤吉 石田源右衛門 同 吉田佐次右衛門
同 戸井村 (三〇名) 佐々木辰五郎 同 谷藤角右衛門
尻岸内村 (一三三名) 増輪半兵衛 西村善次郎 同 坂井 善治
尾札部村
技郷 椴法花 (二八名) 川口勝次郎 佐々木久七 同 佐々木弥三郎
尾札部村 (四二名) 今津 文蔵 吉川喜三郎 同 杉谷金兵衛
臼尻村 (四九名) 野村 長吉 赤石歓三郎 同 野村次郎兵衛
熊泊村 (一八名) 山田 又吉 佐々木粂次郎
鹿部村 (四四名) 伊藤源五郎 和田子之助
砂原村 (七九名) 菊池忠兵衛 高田仁右衛門
掛澗村 (四三名) 三浦 岩蔵 島田仁右衛門
尾白内村 (四二名) 西川与右衛門 笠原 源蔵 同 高佐 多七
森 村 (六九名) 和賀久四郎 小坂 片吉 同 松居 金次
鷲木村 (八二名) 竹原宇三郎 谷藤長五郎 同 加藤和惣治
落部村 (三七名) 相木堯太郎 松岡 福松
技郷 茂無部 (一三名)
技郷 野田追 (一四名)
山越郡山越内村 (二三名) 新井田重吉 山田長三郎
(二三名) 松田茂右衛門
同 技郷 黒岩 (六名) 同 森田和平治
同 技郷 捷平部 (三二名) 同 山田長三郎
膽振国山越郡長万部村 (五六名) 竹内弥兵衛 狩野谷右衛門 同 内村八十吉