漁業組合創立期の指導者

1068 ~ 1071 / 1210ページ
尾札部
 明治一七年、尾札部漁業組合創立にかかわった今津甚蔵(万延元生・一八六〇)は、黒鷲の〓今津家の長男で青年漁業家として、新時代への意欲に燃えた。大いにその活躍を期待され、父文蔵の跡を継ぎ若くして組合頭取となったが明治二二年三〇歳で病死した。
 明治一七年の設立時に、今津甚蔵とともに村総代として名を連ねている小板久兵衛は、川汲の〓小板家の先祖である。もう一人の総代小田原幸作(生年・没年不詳)は、木直の〓小田原家の先祖である。
 明治二二年ごろ、小原多次郎(天保一三生・一八四二)が尾札部漁業組合の頭取を継いでいる。多次郎は明治三〇年ごろまでその職にあって活躍したものと思われる。安浦の蛯谷家文書によれば、明治二九年、板木、川汲の建網漁場境界の丈量(測量)に尾札部村の漁業代表として立会したという記録がある。多次郎は明治三六年、六五歳で没し、その葬儀には昆布の最盛期の中で沖止めをして村民はその死を悼んだという。
 多次郎のあと尾札部漁業組合の頭取に誰が継いだかは記録が不明である。
 
   小原多次郎略歴
天保13・ 6・ 2   陸奥国(岩手県)東閉伊郡字山口村ニ生マレル
 (一八四二)   父佐々木治助  母リン
文久三(一八六一) 尾札部村小原多次郎ノ養子トナル
明治13・ 6・25   尾札部郵便局七等郵便取扱(同一九年局長・同二〇年退職)
  22       茅部郡第壱組漁業頭取(杉林文書)
  22・ 6・24   水産調査地方通信委員ヲ嘱託ス 但報酬トシテ一ケ年金六円ヲ贈与ス 北海道庁第二部
  24・ 9・15  「北海道水産奨励会」開設ニ就テハ能ク地方委員ノ責任ヲ尽サン為メニ出品ノ数多ク費用ノ寄付亦少カラス深ク感佩致候玆ニ謝意ヲ表シ寸楮ヲ呈ス 北海道水産奨励会々長従三位勲三等永山武四郎印
  25・ 3・31   水産調査地方通信委員嘱託ヲ解ク 北海道庁内務部
  29・ 5・22   建網漁場境界・立場丈量立会(〓蛯谷文書)
  29・10・25  (案内状)一一月一〇日ヨリ同一六日迄七日間亀田郡大野村ニ於テ亀田上磯茅部山越郡海陸産品評会相開候 開場式一〇日午前一〇時 褒賞授与式一五日午前一〇時 亀田外三郡海陸産品評会 会頭 木村広凱 印
  29・11・ 4   亀田上磯茅部山越郡海陸産品評会審査委員ヲ嘱託ス 会頭 木村広凱
  30・ 2・10   謝状 亀田外三郡海陸産品評会 会頭 木村広凱 印
  30・ 6・ 1   明治二七・八年戦役ノ際軍資ノ内へ金壱円献納候段奇特ニ候事 北海道庁長官 従四位勲四等 原保太郎 印
  35・ 1・ 1   公立磨光尋常小学校新築費トシテ金一円餘寄付候段奇特ニ候事 北海道庁長官 従三位勲二等 男爵園田安賢 印
  36・ 8・ 9   小原多次郎死去六五歳「法名 霊松軒永岳悟道居士」
 
臼尻
 明治一七年設立の臼尻村漁業組合は、その設立のとき、取締総代に二本柳庄三郎(天保二生・一八三一)、大坂金七(弘化三生・一八四六)、蛯谷直吉(嘉永二生・一八四九)、小助川平次郎(天保八生・一八三七)らの重立が指導的役割を果たした。
 その後、明治一九年、漁業準則に基き規約を設けて一月一四日認可ヲ得、臼尻村漁業組合と改めたとき、頭取に熊谷喜三郎(天保一三生・一八四二)が選ばれた。
 喜三郎は村民の信望厚く、村網の境界裁判で敗訴となったあとの臼尻村の民意をよく掌握して、明治三五年死亡するまで、臼尻村の指導者として永年漁業の発展に尽力した。
 
○熊
 熊村漁業組合は、明治一七年設立当時より成田市助(文政一二生・一八二九)、金沢友吉(生年・没年不詳)、金沢今吉(文政元生・一八一八)らが指導者として熊(大船)の漁業組合の基礎を築いた。しかし明治四四年、一本化して臼尻村漁業組合となるまでの沿革についての記録は不詳である。