安政六己未年(一八五九)
先年より試掘中の河汲峠砥山(とのやま)(砥ノ沢(とのさわ))は、砥石・硯(すずり)石の質、量ともによく産出の見込があるとの報告により、官業採掘が始められることになった。
奉行支配組頭河津三郎太郎の家来佐分利泰蔵が川汲砥山掛を命じられ、松平右京亮元家来、浪人岡本藤市が山元取締となった。
岡本藤市は、砥石の研究に切れ者として知られた者(もの)であった。掘取支配には、江戸の硯職人松之助なる者が呼び寄せられ、松之助に申し付けて江州高島そのほかから職人を雇入れさせ、八月中、本格的に砥石の採掘に着手した。
山元には役家(役宅)を取建てて掛りの者も詰め、鉱山での入用の請(う)け払(はら)いその他の取締りにあたらせた。手当一ヵ月金二両、一日白米八合、味噌四〇匁が給された。官は山元取締岡本藤市を江戸表へ出張させて、川汲砥石硯石の売り捌きの手配にあたったという。
硯石は松之助の「願取りにて相稼罷在」と記されている。硯石は松之助の一手に払下げられたものであろう。
砥石類は、砥石台・名倉砥・鞘水をそれぞれ箱館の捌所に渡した。
万延元年庚申(一八六〇)四月二日
河汲砥石山の開鑿のとき、亀尾御手作業農夫頭取甚右衛門は、官に願い出て砥石山の最寄のところに家作を建て、出役その外通行の者の休泊、山元より切り出す諸物品の運送など一切の御用を勤めた。
甚右衛門は運送使役のための牛馬の飼立所や小屋の取建(とりたて)並びに、賄方の畑地の開墾、牛馬の秣場の用地として、銭亀沢のうち字桂台の土地の割渡しをうけた。
はじめは砥石山入用の諸物品は、箱館の産物会所から仕送りしていたが、万延二辛酉年(一八六一)甚右衛門が砥石山運送御用も勤めるようになり、役家々の買物や職人の入用品など甚右衛門が一手に引き請けた。
万延元年(一八六〇) 尾札部 燧石
川汲川 砥石
古部 黄土・黄石