寛政一〇年(一七九八)村上嶋之允の記す「箱館表方間道路之里程改正写」(北大図書館所蔵)に拠れば、川汲山道は上湯川村稲荷社前より河汲浜に至る六里二九丁一間、とある。
天保二年(一八三一)、蝦夷地里数書入地図(早稲田大学図書館所蔵・高木崇世芝協力)には、上湯川村ゟノタフ・ケナシ峠(川汲峠)・温泉を経て川汲まで五里二二丁四四間と記している。
弘化四年(一八四七)、松浦武四郎が箱館より友人を訪ねて川汲温泉に来往したときの川汲山道の里程は、蝦夷行程記に拠るとしている。
(箱館より)
一里半
亀田村
一六丁
下湯川村
二〇丁
上湯川村
二里一一丁三〇間
野田府
一里 一丁 五間
ケナシ峠下
一八丁四九間
峠上
一里一九丁
温泉場(川汲温泉)
温泉場(川汲温泉)
一八丁二〇間
川汲(村里まで)
箱館より九里と記している。
安政四年(一八五七)、堀奉行一行が来村して川汲金・銀・銅山を巡見する。一行は川汲嶺の急坂を越える。川汲砥石山から野田府・上湯川を経て箱館へ帰る。難路である、と玉虫義は「入北記」に記している。
明治元年一〇月末(旧暦)、箱館戦争発端となる旧幕軍の鷲ノ木上陸、砂原鹿部を経て、新選組土方歳三の率いる一隊が沿岸を来攻し、雪の川汲峠を越えて五稜郭に入城する。箱館戦争後、川汲温泉に湯治する人、遊山する人、函館との商用や駄馬の輸送など、明治から大正へ川汲山道は往来するものが多かった。
開拓使事業報告の明治十一年に
川汲山道 上湯川村ヨリ川汲ヲ経テ尾札部村ニ至ル六里弱、山間甚嶮難。是ヲ函館ヨリ東海岸ニ出ル捷径トス。
と記されている。