寛政三年、菅江眞澄が搔き送り舟で尾札部・臼尻・鹿部を伝い行き、胆振、有珠岳へ旅をした。(蝦夷地参照)
眞澄の「えぞのてぶり」には海路は記されているが、恵山から尾札部・臼尻の陸路は記されていない。
寛政一二年(一八〇〇)、東蝦夷地厚岸からの帰途、幕吏戸川藤十郎の一行がエトモ(室蘭)から砂原・鹿部を経て尾札部・椴法華・古武井・戸井を回り箱館に至る行程をとっている。普通、エトモ(室蘭)から渡海し砂原から大沼を経て大野村に出、亀田村・箱館への行程をとるのがほとんどであった。
戸川一行の東海岸通りは、貴重な郷土の海岸道路の事情を記録に残しているものである。
寛政一〇年、村上嶋之允の記した「箱館表方間道路之里程改正写」(北大所蔵)がある。