蝦夷地の昔、昆布商売といって、和人は昆布採取のため亀田(箱館)近在から小舟で来るようになる。
郷土への渡来の始めは海路であったろう。(「郷土への渡来」「漁業・昆布」参照)
六か場所尾札部場所といわれた南茅部の沿岸に来住者が増加すると、村から村への往来も多くなり、船は日常の最も大事な交通手段であった。海産物を箱館へ送り、米噌を箱館から運ぶのも、すべて海路船便であった。
船便はすべて凪待ち風待ちであった。何をするのも自然に逆うことはできない人の力と、自然に従い利用することにかけて、船は大きな輸送も事足りた。
元文年間(一七三九)の蝦夷商賈聞書には「トヱ(戸井)シリキシナイ(恵山)トトホッケゟヲサツベ迄」みな小舟にて村々より「箱館江(へ)昆布積通(つみかよい)候」と記している。
寛政から文化年間、六か場所の海産は高田屋金兵衛が買占めていて、高田屋の五、六百石積の船が夏から秋に往来した。弁天島のある臼尻の澗は、荷待ちに適していた。
天保七年(一八三六)、臼尻村竜宮庵(覚王寺前身)に須弥壇が寄進されたとき、箱館の商人山口屋太次兵衛が仏具の発注の世話をし、松前一船頭梶谷與八が臼尻に船で運んで来たことが記されていた。(上巻口絵参照)
安政年間、勧請された大船の歌浜稲荷神社のご神体も、熊泊村へ回航の船頭が引き請けて、一切の世話をした文書(〓成田筆吉所蔵)がある。