亀田八幡宮社記によれば、延宝二年(一六七四)六月(旧暦)、尻沢部村(現函館市住吉町辺)より野田追村までの漁家、出稼ぎの者ら、一軒につき昆布一駄を初穂料に差し出し、亀田八幡宮において漁業安穏成就の神楽を奉納したという。
郷土南茅部の開基と伝えられる延宝五年(一六七七)とほぼ同一年代に、すでにこの沿岸の昆布は亀田村、現在でいうと函館近在の漁業者の出稼漁場であったのである。
昆布漁祈願の神楽は、下海岸から南茅部・砂原・八雲までの六か場所の漁家と、その出稼漁師達が、その年の収穫が豊かであることを祈って亀田八幡宮に奉納したものである。さらに寛文のアイヌと和人の大抗争から日の浅いときだっただけに、アイヌと和人の出入り・諍(いさか)いのないよう特別に祈願するための安穏成就の神楽でもあったと解される。
六月十五日 昆布濱取揚之行
天気暖晴之為祈禱神楽修行被二仰渡一。
右供料ハ尻澤部村ヨリ濱通野田追村迄、昆布稼方之者より乞之願二付、駄昆布壹駄宛寄附有レ之、此時領主より為二御名代一亀田奉行下代兼名主年寄付添社参有レ之候。