現在の態勢

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以上、本県の考古学研究を第Ⅰ期から第Ⅲ期に分け、それらの中で江戸時代から昭和三十三年(一九五八)の第Ⅲ期に至るまでを概観的に記述した。一九五八年以後は、先述のように年を追うごとに緊急調査が増大し、ことに昭和三十五年(一九六〇)に始まった所得倍増計画や、昭和五十二年(一九七七)の第三次全国総合開発計画(三全総)、およびその後の四全総は、ますますその度を増すに至った。本県も、遅れはしたが開発の波は徐々に浸透し、昭和四十六年(一九七一)から「むつ小川原開発」、昭和五十四年(一九七九)には六ヶ所村に「石油備蓄基地」の設置、その後の「核燃料サイクル施設」の建設等々、巨大開発は目白押しの状態であり、それに伴って開発予定地内の緊急発掘調査に追われ続けている。このような事態に対応するため、青森県教育委員会では、昭和四十八年(一九七三)機構改革を行って従来の社会教育課から文化課を独立させ、さらに増加を続ける緊急調査に対し、昭和五十五年(一九八〇)には埋蔵文化財調査センターを設置して発掘調査の任に当らせることにした。また、明治一〇〇年を記念して昭和四十八年(一九七三)十月に青森県立郷土館が、昭和五十二年(一九七七)四月に弘前市立博物館が、さらに昭和五十八年(一九八三)七月に八戸市博物館等が開館し、文化の殿堂としての役割を担っている。
 また、昭和四十五年(一九七〇)を境として、県内の考古学研究者の間に情報交換や研究協力の気運が生じ、同年十二月には研究者を糾合した青森県考古学会が発足し、会誌『青森県考古学』(発足当初は青森県考古学会々報)を刊行した。そのほか、弘前大学で考古学を学んだ卒業生による『弘前大学考古学研究』(一九八一年創刊)、県内外研究者の論考を集めた『考古風土記』(一九七六年創刊~一九八四年九号で終刊)、八戸地区の研究者が結成した奥南考古学会の『奥南』(一九八〇年創刊)、青森地区を中心とした『遺址』(一九八一年創刊)がある。また下北では、県内でも古い研究実績をもつ「下北の歴史と文化を語る会」(発足当時は下北史談会)が、昭和四十年(一九六五)から『うそり』を刊行し、青森山田高校では、クラブ活動ながら熱心な顧問教諭と部員の強い絆で発行している『撚糸文』という研究会誌がみられ、ほかに昭和三十年(一九五五)に発足した青森県文化財保護協会が刊行する『東奥文化』(一九五五年創刊)も、考古学関係の論考を掲載することが多い。
 先述した県の諸機関でも、県埋蔵文化財調査センターが、調査遺跡の『発掘調査報告書』と『埋文あおもり』ならびに『図説ふるさと青森の歴史』に続いて、平成八年(一九九六)から『研究紀要』を刊行し、調査担当職員による研究論文・資料集成・年度の県内遺跡発掘概要などを掲載し(108)、県立郷土館では『調査研究年報』と、同館が調査した遺跡の『発掘調査報告書』、八戸市博物館では『研究紀要』等を刊行している。
 開発に伴う緊急調査によって、従来のような小規模な調査では長い年月を必要とするほどの面積が発掘されるようになり、それに伴って歴史を書き換えねばならないような新発見も相次いでおり、その傾向は学術調査でも同様である。