人類の進化

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類人猿と別れてヒト(人類)への道を歩みはじめた我々の遠い祖先達は、やがて気候と生活環境に恵まれたアフリカの地において直立歩行(二本足で立ち歩行)し、知恵と解放された前足(手)を使って道具を作り、諸動物に比して劣る力と敏捷(びんしょう)さをカバーしながら支配者としての地位を占めるのである。
 ヒトへの進化を研究している人類学では、最古の人類から今日に至るまでの長い道のりを、猿人原人旧人新人に分け、その進化変遷の究明にあたっている。
 現在発見されている最古の人類化石骨は、東アフリカのタンザニアにおいて一九七八年発見されたアファール猿人(オーストラロピテクスの仲間)といわれ、彼らは直立歩行し、すでに家族なる社会の最小集団を構成していたと考えられている(2)。アフリカでは古い人類の化石骨が多く、人類の発生地はこの大陸であろうとする見方も強い。
 最古の人類とされる猿人(オーストラロピテクス群)を経て、次の原人の段階に達すると、アジアでもその仲間の化石骨がインドネシアのジャワ島や中国の北京近郊からも発見され、前者を直立原人(学名ピテカントロープス・エレクタス)、後者は北京原人(中国原人ともいわれる。学名シナントロープス・ペキネンシス)と呼称されている。その北京原人骨は第二次世界大戦の余波を受けて所在不明となり、その行方は現在も探索中といわれる。紛失の原因は謎としてミステリー的様相を呈している。原人猿人に比べて数段進歩し、すでに火を使用した痕跡が認められ、また石を打ち欠き利器(りき)に利用していたらしい。

北京原人使用石器
(裴文中『中國石器時代的文化』1954年 P16より)

 原人に次ぐ旧人は、ドイツのデュッセルドルフ近郊で一八五六年に発見されたネアンデルタール人が、その代表として人類発達史上に登場する。この旧人の仲間は、ヨーロッパから西アジア、ならびにインドネシアなどでも発見され、かなり広く分布している。彼らは石を打ち欠いてできる剥片(はくへん)が鋭利なことを知り、用途に応じて種々の形状の石器を案出し、製作使用した。
旧人に次いで現れる新人は、旧大陸の各地で生活を始め、現在の人類に結び付く人々と考えられており、ホモサピエンス(知恵のあるヒト)といわれている(3)。なかでもヨーロッパに住んだ彼らの仲間達は洞窟の中にすばらしい芸術を遺(のこ)している(4)。

頭骨よりみた進化の過程
(『William Howells『MANKIND SO FAR』1944年 P179より)


旧石器時代人の遺した壁画
(木村重信『洞窟の美術』1960年より)

 猿人から新人へと進化して来た過程の中で、人類はより良い生活を求めて道具を考案し、次々に改良を重ねて生活の向上に役立てた。
 彼らが利器(刃物)に使用した材料は石であり、デンマークのC・J・トムセン(一七八八~一八六五)は、人類が石を主要な道具として用いていた時代を石器時代と名付け、さらにイギリスのJ・ラボック(一八三四~一九一三)は一八六五年に、石を打ち欠いて利器とした時代を旧石器時代、磨いて作り出した時代を新石器時代と呼ぶことを提案した(5)。なお、これらの時代呼称を地質学で研究されている地球の歴史に合わせると、第四紀更新世(こうしんせい)(洪積世(こうせきせい)ともいう)と完新世(かんしんせい)(沖積世(ちゅうせきせい)ともいわれる)に当たる。この時代は別名を氷河時代と称されるほど寒冷であり、おもに北半球は北緯六〇度の付近まで北極の氷床が前進し、その最寒冷期には多くの海水を凍らせた結果、海水面が大きく低下した。たとえばアジア大陸と日本列島を分離させているタタール(間宮)海峡、ラ・ペルーズ(宗谷)海峡、津軽海峡などは大半が陸と化し、大陸から諸動物をはじめ、人類も移動し列島に住み付いた。現在は絶滅してしまい、化石骨となって発見されるナウマンゾウ・オオツノシカ・ヘラジカ・ハナイズミモリウシなどが闊歩(かっぽ)していたのであった。これらの化石骨は長野県北部の野尻(のじり)湖をはじめ、東北地方では岩手県の花泉(はないずみ)町にある低湿地(6)と、青森県の下北半島東北端に近い東通(ひがしどおり)村の石灰岩採掘場において発見され、また七戸(しちのへ)町でもアオモリゾウと命名されている古代ゾウの仲間が出土している(7)。

氷河時代の牛化石骨が出土した岩手県花泉町