第四節 注および引用・参考文献

357 ~ 358 / 425ページ
(1)A 松下孝幸 「九州と中国の古人骨を読む」『稲-その源流への道』 東アジア文化交流史研究会 一九九〇年

 B 韓康信 「九州の古人骨をみる」『稲-その源流への道』 東アジア文化交流史研究会 一九九〇年

(2)伊東信雄 「東北北部の弥生式土器」『文化』二四-一 一九六〇年

(3)工藤正 「田舎館遺跡」『東奥文化』 一六 一九八〇年

(4)青森県教育委員会・垂柳遺跡発掘調査会 『垂柳遺跡発掘調査報告書』(青森県埋蔵文化財調査報告書八八) 一九八五年

(5)弘前市教育委員会 『砂沢遺跡発掘調査報告書』図版編 一九八八年

 弘前市教育委員会 『砂沢遺跡発掘調査報告書』本文編 一九九一年

(6)「日本書紀」巻廿六 斉明天皇五年の条。

 秋七月………遣下二小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。於唐国。仍以道(陸)奥蝦夷男女二人。示唐天子。………(中略)………天子問曰。蝦夷幾種。使人謹答。類有三種。遠者名都加留。次者市麁蝦夷。近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷。………天子問曰。其国有五穀。使人謹答.無之。食肉存活。

 『新訂増補 國史大系 日本書紀』後篇 吉川弘文館 一九九〇年(普及版一二刷)

(7)A 須藤隆 「東日本における弥生文化の受容」『考古学雑誌』七三-一 一九八七年

 B 市川金丸・木村鉄次郎 「青森県松石橋遺跡から出土した弥生時代前期の土器」『考古学雑誌』六九-三 一九八四年

(8)田舎館村教育委員会 『垂柳遺跡』(昭和六十三年度垂柳遺跡緊急調査報告書〈第三年次〉)  一九八九年

(9)A 工藤正 『尾上町古代遺跡(昭和三十六年度)発掘調査報告書』 尾上町教育委員会 一九六二年

 B 第三節(60)に前掲

(10)石附喜三男 「鈴谷式土器の南下と江別式土器」『北海道考古学』一二 一九七六年