「蝦夷・蝦狄」表記の創造

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日本書紀』のエミシ表記の研究によると、持統天皇四年(六九〇)ころから、『日本書紀』の素材となった原史料類から「蝦蛦」表記が消え、やがて「蝦夷」の表記が好んで使用されるようになっていったといわれている。
 「蛦」と「夷」とでは、表面的には単に虫偏のあるなしの違いだけであるが、「蛦」字には、「夷」字とは異なって、そこに明確な差別意識が込められていることに注意しなければならない。
 中国では、世界の中心である中華に皇帝がおり、その徳が及ぶ中華世界の外側四方には、それぞれ野蛮人が存在していると考えられていた(図9)。「夷」とは、それら四方の野蛮人のうち、東方のそれを指す言葉なのである。これを中華思想という。漢民族が自らの民族・国家を最高のものと見なし、周辺の諸民族とその文化を野蛮視するものである。

図9 中華思想

 もちろん、「蝦蛦」という用字にもすでに蔑視される要素は含まれている。だいたい虫偏のつく字は、その恐れがあるとみてよいであろう。また類似の「熊襲(くまそ)」「隼人(はやと)」などといった呼称のなかにも、「蝦」同様、いずれも動物を指す文字が含まれており、これまた蔑視される要素は含まれている。ただ「蝦蛦」という字は、先に触れた「毛人」同様、「エミシ」という音で読まれているうちは、高級官僚の人名にも使われていた。必ずしもそこに差別意識が含まれているとは限らない。ただ「夷」となると、右に触れたように、話は別なのである。
 今でこそ私たちは、東北地方がその名の通り日本の東北に位置することを知っているが、まだ正確な地図がなかった時代には、日本列島を東西に細長いものとしてとらえるのが普通であったらしい。このことは、「行基図(ぎょうきず)」といわれる古代~中世にかけて描かれた一連の全国地図に端的に表現されている。したがって中央の人々は、東北地方を日本の東方と見なし、そこに住む辺民に「夷」の字を充(あ)てたわけである。海道・山道という名称もすべてこの方位観念からきた言葉である。ちなみに北は、越国から佐渡方面(のちの出羽国方面も含む)であり、北陸道という名称にその方位観念が込められている。
 日本では、律令体制成立以前には、蝦夷を、天皇中心とした体系的な世界観のうちに位置づけようとする、中国の中華思想的イデオロギーはまだ確立していなかったようである。
 しかし中国に範をとった律令体制の整備が進み、また天智天皇二年(六六三)、日本が友好国であった百済の復活を策して唐・新羅連合軍と争い、結果として大敗を喫した白村江(はくすきのえ)の戦い以後、唐・新羅に対抗すべく日本のナショナリズムが急速に高揚するなかで、中国の中華思想のミニュチュア版としての小中華思想が国内で強まっていった。中国と同じように、徳の高い天皇を世界の中心にすえ、周辺の諸民族を野蛮人として四方に配置しようというわけである。
 ただ日本版ナショナリズムからいえば、中国の単純な物まねだけでは面白くない。また中国と同じ土俵では、絶対それに勝てないことも自明である。そこで日本では、中国とはやや異なった世界観も積極的に取り入れられることになった。その中心となったものが仏教的な世界観である。
 中華思想では中国こそが世界の中心であり、日本自身が小中華思想を唱えたところで、所詮(しょせん)中国から見れば、それは辺境内部の話でしかない。ところが仏教の教義では、世界の中心はかの須弥山(しゅみせん)(写真12)である。須弥山を中心に見れば、中国も日本もいわば同格である。

写真12 須弥山

 そこで当時の日本ではこうした世界観に基づく儀式が盛んに行われた。たとえば斉明天皇の時代には、蝦夷や粛慎(あしはせ)といった北(東)方の異民族たちを、飛鳥寺に設けられた須弥山の周りに集めて、饗宴が行われている。そのとき利用したであろう「須弥山石(しゅみせんせき)」なるものも、飛鳥寺の北西の石神から出土している(写真13)。

写真13 須弥山石

 またこれは北だけの話ではない。天武天皇の時代以後になると、奄美(あまみ)以南の南島にも中央政府の使が派遣され、朝貢を促している。北からも南からも異民族に朝貢させて、日本版の新しい中華世界を創出することに政府は躍起であった。
 そうした風潮のなかで律令体制が整備されるにつれて、日本でも中国風の中華思想が高まってきて、差別意識を込めて、東方の辺民を「蝦夷」と表記することが、好んで行われるようになったのであろう。現在知られる『日本書紀』の素材となった原史料のなかで、「実録的」といわれる政府の公式記録的なものに「蝦夷」表記がみえる初めが、持統天皇十年(六九六)である。まさに対外的な武力強化を意識した軍国体制の真っただ中にある時代であった。
 また八世紀になると、『日本書紀』に続く、国家の正史である『続日本紀』冒頭の文武紀には、「蝦狄」という用字法もみられるようになることに注目すべきであろう。
 「狄」とは、先に示したように、中華思想において北方の野蛮人を指す語である。つまり太平洋側(東に位置する)の蝦夷と、日本海側(北に位置する)の蝦狄(かてき)とを区別し始めたわけである。
 このように従来「エミシ」として一体であった東北の辺境民を、あえて「蝦夷」「蝦狄」と書き分けるようになったところにも、中華意識の高揚、すなわち東北の人々への差別意識の強化がみてとれよう。
具体的にエミシが異人種・異民族であったかどうかは別として、ここでは単に中華思想に従って、天皇の支配する日本の外側には異民族が存在しなければならないという、極めて政治的な理由から、東北地方の人々が、蝦夷とか蝦狄とか呼ばれるようになったのである。
 また当時の政治家にしてみれば、狭い日本列島で、中国の南蛮や西戎(せいじゅう)に相当するような民族をうまく設定できなかったことは、対外外交施策上、相当悔しいことであったのかもしれない。
こうしてかつての「毛人」から「蝦蛦」へ、さらに「蝦夷」へと、「蝦(えび)」の字が定着するにつれて、「エミシ」に代わって、「蝦」の漢字の音に添って「エビス」という訓(よ)みが普及し始めたのではないかと思われる。「エビス」の訓(よ)みが確認できるのは、『釈日本紀』秘訓四に、養老説として「蝦夷」の訓みを「衣比須(えびす)」とするもの(写真14)や、また養老五年(七二一)下総国葛飾郡大嶋郷戸籍に「(孔王部(あなほべ)衣比須」という人名がみえるのが(写真15)その早い例であり、おそらく八世紀初めには定着していたであろう。そしてその訓みには、やはり次第に差別意識が込められるようになっていったらしい。その影響を受けて、長く親しまれてきた人名における「毛人」表記も、やがて消えていった。現在知られる「毛人」なる人名表記の最後のものは、弘仁十年(八一九)の「田口朝臣毛人」の場合である。

写真14『釈日本紀』秘訓四
蝦夷に「エヒス」と訓がふられている。


写真15 下総国葛飾郡大嶋郷戸籍
左下に「衣比須」という人名がみえる。

 このように、蝦夷と呼ばれた人々は、中央の人々の中華意識によって必要とされた差別のために、意図的に差別された存在であったのである。もちろん、言葉においても生活様式においても文化においても、蝦夷と呼ばれた人々の世界には北方世界との交流による独自のものがあったに違いない。中華思想による意図的な差別意識によって、蝦夷の文化の実態が正しく記録に残されることはなかったため、その評価は難しいが、そもそも人類の歴史における多様な諸文化について、絶対的な高低評価を下すのは正しい姿勢ではない。東北地方の人々が、蝦夷の子孫であることを恥じる必要はまったくないのである。