この古墳文化の新しい波は、四世紀初めには早くも今の福島県域にまで押し寄せてきたことが知られている。現在、東北地方最古の古墳とされているのは、会津坂下町(あいづばんげまち)の杵(きね)ガ森古墳で全長四六メートル余りのもの。また飯盛山(いいもりやま)山頂あるいは堂ヶ作(どうがさく)山山頂にも全長六〇メートルから八〇メートルの規模の、やはり四世紀前半の古墳の存在も知られるようになった。かつて東北最古とされた著名な会津大塚山(あいづおおつかやま)古墳(写真18)からは、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)・銅鏃(どうぞく)・三葉環頭大刀(さんようかんとうたち)などが副葬された粘土槨(ねんどかく)が見つかっていて、四世紀後半のものと推測されている。全長一一四メートル、後円部径七〇メートルの大規模なものである。
写真18 会津大塚山古墳全景
四世紀中には、福島県域ではこうしたかなりの規模と構造をもった古墳が築造されるようになっていた。三角縁神獣鏡といえば卑弥呼が魏から与えられたものとして著名な鏡であって、近年、その産地をめぐる学界の議論が盛んにマスコミをにぎわせたが、この会津大塚山古墳から出土したものは四世紀中ごろに大和政権からこの古墳の主に賜与(しよ)されたものらしい。その鏡と鋳型を同じくする同笵鏡(どうはんきょう)は、岡山県でも発見されているし、また類似の特徴をもつ鏡は、はるか遠く福岡県沖ノ島(おきのしま)からも発見されている。会津大塚山古墳からはほかにも多数の刀剣・玉などが出土しているが、これらも西日本的色彩の強いものである。こうした事実は、すでに四世紀には、会津地方が西日本と同じく大和政権の支配下に入っていたことを意味している。
残念ながら東北地方では、この会津大塚山古墳のほかに、その内部構造まで詳細に知られる古墳がまだ知られていないので、確かなことはいえないが、早くも四世紀中には、東北南部のかなり広い地域が大和政権の影響下に入っていたとみてよいであろう。
四世紀後半になると、こうした大規模な前方後円墳は、仙台平野・米沢盆地あたりにまで北上する。仙台市の遠見塚(とおみづか)古墳は広瀬(ひろせ)川左岸の自然堤防上に位置し、全長一一〇メートル、後円部径六三メートルという、東北地方有数の大規模なものである。米沢盆地では南陽市の稲荷森(いなりもり)古墳が、全長九六メートル、後円部径六二メートルという規模をもつ。これは名取(なとり)川流域の仙台平野の古墳と類似した形態をもち、仙台平野の豪族たちとの関係が取り沙汰されてもいる。
前方後円墳はさらに宮城県の大崎平野の江合(えあい)川流域、新潟平野南半部、山形県の山形盆地あたりまで北上するが、それより北となると、山形県庄内平野の菱津(ひしづ)古墳(鶴岡市)、岩手県南部の角塚(つのづか)古墳(胆沢町・写真19)などが、前述した古墳の濃厚な分布地帯から離れて存在するものの、秋田県域や青森県域には、前方後円墳は一つも存在しない。
写真19 角塚古墳全景
埴輪も有する日本最北の前方後円墳である角塚古墳は、五世紀第3四半期ころの造営と推定され、全長四五メートル、後円部径二八メートルの規模で、岩手県内最古で最大のものであるが、これは大和政権側の豪族が、一時的、例外的にこのあたりまで進出していたことを示すと考えられるが、この地域が継続的に大和政権の影響下に組み込まれていたとは考えられない。
青森県域はもちろん、東北地方北部においては、南部とは対照的に、大和政権の文化の影響は極めて薄かったといえよう。