斉明天皇五年の「北征」

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斉明天皇五年(六五九)三月にも、比羅夫は越国を発して再度「北征」に赴いた。まず例の有間浜に、飽田(あきた)・渟代・津軽の蝦夷と、前年帰順した渡嶋蝦夷の一派と思われる胆振鉏(当時の訓が『日本書紀』に「伊浮梨娑陛(いふりさへ)」と万葉仮名風に記されている。以下同様)の蝦夷の精兵を結集して饗宴を催し、禄を賜った。朝廷に与する蝦夷の団結を固め、ここを拠点に、残された北の渡嶋地域の完全な帰順を目指したのである。
 その帰順した蝦夷らの兵力は、飽田・渟代の蝦夷二四一人およびその虜(とりこ)三一人、津軽の蝦夷一一二人およびその虜四人、胆振鉏の蝦夷二〇人であった。「虜」というのは、蝦夷内部での部族闘争の結果として生じた、敵対する蝦夷の部族から得た捕虜たちのことであろう。その際、比羅夫は船一艘と五色の綵帛(しみのきぬ)(染め分けた絹であるという)を提供して、蝦夷軍の主力となる津軽蝦夷の神を祀らせた。
 七~九世紀の蝦夷集団というのは、相互に通好・同盟することもあれば、対立・抗争することも珍しくなく、このときの饗宴に際しても、各地の蝦夷はそれぞれ虜と称する他地域の蝦夷を引率してきている。比羅夫は、これまでそういった対立を利用して平定を進めてきたわけであるが、大和政権に帰順した蝦夷相互での抗争は防がねばならず、蝦夷の調停者として、蝦夷の神も比羅夫の主導の下に祀らせたのである。
 その上で比羅夫の水軍は有間浜を出発し、北の渡嶋方面へと向かった。まず肉入籠(ししりこ)に至ると、問莵(という)の蝦夷二人が進み出て、この先の後方羊蹄(しりへし)をもって「政所(まつりごとどころ)」とすることを勧めたので、それにしたがって、ついにこの地に渡嶋の政所(役所)を置いて帰ったという。