乱の勃発

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元慶(がんきょう)二年(八七八)三月、平安時代最大の蝦夷の反乱ともいうべき元慶の乱が、出羽国で勃発した。この乱については、正史『日本三代実録』の記載が詳しい上に、乱平定の責任者であった藤原保則(ふじわらのやすのり)について、三善清行(みよしきよゆき)が著した『藤原保則伝』という伝記が残っているので、これまでの「三十八年戦争」などに比べてかなり詳しい状況が知られる。
 乱の原因は、前年の不作にもかかわらず、出羽国司秋田城司たちが農民から収奪を繰り返したことにある。またそのなかには、私腹を肥やす者すらいたらしい。時の秋田城介は良岑近(よしみねのちかし)で、『藤原保則伝』の名文によれば、彼は「聚(あつ)め斂(おさ)むるに厭(いと)うことなく、徴(はた)り求むるに万端なり(税を徴収することはいっさい厭わない)」、「貪欲暴獷(ぼうこう)にして、谿壑(けいがく)も填(うづ)みがたし(広い谷も填めきれないほど貪欲である)」、「もし毫毛(ごうもう)も(少しでも)その求めに協(かな)わざるときは、楚毒(そどく)(苦しみ)をたちどころに施す」といった人物であったという(史料三四七)。
 また同じ『藤原保則伝』によれば、中央の権門子弟らも、東北の善馬・良鷹を求めて相当悪どいことをやっていたらしい。馬や鷹は、東北(あるいは北海道方面)の名産品として都でも需要が高く、安価に脅し取ることができれば、都でかなりの利益を上げることができたのであろう。
 こうした国司らの苛政(かせい)に抵抗して、多数の俘囚(ふしゅう)(蝦夷のうち律令国家に服属した者)が組織的に立ち上がり、秋田城や秋田郡家、周辺の民家に火がかけられるまでに至った(史料三二五)。しかもその後も出羽国の官軍は苦戦の連続で、もはや現地では進退窮まった観すら呈していたのである。たとえば時の出羽守藤原興世(おきよ)は、まず六〇〇人の兵を派遣して能代営(のしろえい)(能代市檜山の大館台地付近か)を守らせようとしているが、これは反乱軍の真っただ中でのまったく無謀な作戦であって、これは見事に失敗した。命からがら逃げ帰ったものはわずかに五〇人であったという(史料三二七)。
 正史『日本三代実録』には「秋田河以北を己が地に為さんと請う」(史料三三〇)という記事もあって、なんと俘囚たちは、雄物川以北の律令国家からの独立希望すら明言していたのである。彼らのいう「秋田河以北」がどこまで広がっているのかについては定かではないが、のちに触れる蝦夷側の拠点一二村が点在する、現在の能代から比内・鹿角(かづの)に至る、秋田県の北半分を含むものであろう(図13)。もし本当にこれだけの地域が独立して俘囚国家を形成したならば、古代東北史はまた違った展開を遂げたに違いない。

図13 元慶の乱時の現地情勢

 こうした現地官僚の苛政に起因するという点で、これはまさに中央集権的律令国家が変容して、地方の現地官僚がその政治の実権を握った時代の象徴的な事件であるともいえる。