このように蝦夷の朝貢・饗給に代わる交易雑物制の登場は、北の世界に大きな変動をもたらした。中央政府による朝貢要求がなくなったことは、中央の側では対蝦夷融和策に転換していることを意味する。
しかし現地で蝦夷との交易交渉にあたった官人(辺境軍事貴族ないし俘囚長)たちの態度はそうではなかった。蝦夷を閉鎖的社会に押し込め、すでに律令国家によって郡郷制に編成された地内に住む俘囚と、律令国家の支配が及ばなかった北東北の「奥地」の蝦夷とを分断し、北方の蝦夷から名目的には交易であっても、その軍事力を背景に実質的には収奪と呼べるような、かなり強硬な貢納を要求したのである。
本章第四節で詳しく述べられているように、考古学的には、もともとこの世界では古くからさまざまな交流があったことが証明されているが、そうしたルートを利用して、強力に北方の特産品を集めていったのである。
あるいは中央政府もこうした実態を知っていたのであろうが、既述したように、当時は地方政治に介入しないのが原則であり、中央としては特産品さえ入手できればよいのである。朝貢ならば、蝦夷の側から自由に選んで物品を持参すればよかったのであるから、これは蝦夷にとってみれば朝貢よりもさらに過酷な収奪であった。
おそらくこうしたことによる緊張状態の形成が、北の世界にかなり不安定な要素をもたらし、蝦夷の集落が防御を必要とするようになっていく一つの要因を生み出したのであろう。中央でいえば、国司のあまりの収奪の激しさに抗議した、かの有名な「尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにぐんじひゃくせいらげぶみ)」の世界、いわゆる「国司苛政(かせい)上訴」の世界に通じるものがある。
これまでにも触れたように、そもそも蝦夷社会は最後まで国家の形成には至らなかった。蝦夷の内部でも、その時々の情勢によって、ある蝦夷の村は国司(鎮守府将軍・秋田城介)についたり、また別の蝦夷の村は国司に逆らったりすることは日常茶飯事である。蝦夷村相互の抗争も激しい。しかもこうした関係は日によって逆転したりする。
こうした世界に変容していったことによって、対国司、あるいは他の蝦夷集団への備えとして、村落を環壕や土塁で防御するようになっていったものと考えられる。
なお浪岡町の高屋敷館(たかやしきだて)遺跡に代表されるような大規模な環壕をもつ環壕集落であっても、これまで知られている中央の文献史料にはいっさい登場しない。それは既述したように、中央政府が地方政治にまったく関心を持たなくなっていたからで、地方政治の実状は、中央に直接結びつく、何かそれなりの事件がない限り、極めて記録されにくい状況にあったからである。