搬入された交易品のうち、生産地や年代が推定できる資料として陶磁器が挙げられる。県内最古の出土陶磁器は、黒石市高館(たかだて)遺跡や蓬田村蓬田大館(よもぎだおおだて)遺跡、さらに八戸市大仏(だいぶつ)遺跡から出土した中国製品である。高館遺跡の出土資料は白磁皿であり、薄くて透明感があることから「影青(いんちん)」という言い方をして呼び習わしている。この陶磁器は竪穴建物跡(住居)のカマドから出土したもので、一二世紀ごろの年代観を有している。蓬田大館遺跡の陶磁器もほぼ同時期の資料で、白磁と青磁が一片ずつ出土している。また、大仏遺跡の陶磁器も白磁皿であり、竪穴住居跡から出土し、一一世紀代まで上る可能性もある。
このことは、北奥の地が「蝦夷」の地と呼ばれた時代から、少ないながらも既に中国製の陶磁器が持ち込まれていたことを示し、決して閉鎖的な社会ではなく、広範囲な人とモノの動きがあったことを想定して差し支えないと思われる。
平安時代後半の一一世紀から一二世紀は、それまでの朝貢的なモノの移動だけでなく、交易という相互の経済行為として物流が進展した時期でもあった。たとえば、列島の南の玄関口であった博多は国内各地に流通する拠点となった場所であり、出土する中国製を中心とする貿易陶磁器は、一一世紀に入るとこれまでより格段の量が搬入され、一度に数千点の陶磁器が出土する例もある。
一一世紀の中ごろに成立したとされる『新猿楽記』(史料一一一一)によると、商人の主領・八郎真人(はちろうまひと)は俘囚之地(蝦夷)から貴賀之島(喜界島)までの交易をするなかで、唐物つまり中国から入る物品として四四品目を挙げ、そのなかに、藤茶琬(ふじちゃわん)・瑠璃(るり)壺などの陶磁器を記し、本朝物、つまり日本から輸出する物品として三〇品目のなかに、金・琥珀(こはく)・銅・鉄・絹・紫・鷲羽などを挙げている。列挙された品目のなかには北奥の特産物も含まれ、文献の上からもこの時期の交易の進展を認めることができる。
このように、北奥の地までもたらされた白磁や青磁という陶磁器が中国で生産されたモノであること、そして北奥の鉱産物や織物・鳥羽などの物産を中国大陸まで輸出していることは、中世初期の交易を考える上で重要な観点である。つまり日本列島が中世という時代になると、中国大陸や東アジア地域と一体化した交易システムの上に成立している証拠となり、辺境とみられていた津軽・北奥の地も例外ではなかったのである。
ただ、一一世紀から一二世紀前半の陶磁器が、すべて南からの搬入品かどうかは今のところ明確ではなく、北回りの可能性も考えて、類例の増加を待ちたいところである。