泰衡の死

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頼朝は十三日には多賀国府に入り、数日休息した後、玉造(たまつくり)郡を経て平泉を目指した。泰衡は暴風雨のなか、二十一日には政庁である平泉館の門前まで戻ってきたが、頼朝軍の急な追撃に休む間もない。平泉館に火を掛けると、さらに夷狄嶋(えぞがしま)(北海道)を目指して奥大道を北に逃走した。
 二十二日夕方、前日来の台風のなかで二万の頼朝軍はついに平泉に入った。主を失った平泉は寂漠として人気もなかったという。泰衡はあわてて平泉館を焼いただけで逃走したので、都市平泉の大部分は無傷のまま頼朝の手に入ったのである(史料五三三・図37)。

図37 奥州合戦時の鎌倉勢の進路

 二十五日には、泰衡のもとから頼朝宛の命乞いの書状が頼朝宿所に投げ込まれた。そこには、義経をかくまったのは父秀衡であり、自分は頼朝の命を奉じて義経を誅したのであるから、勲功者であって、帰降した上は御家人の列に連なりたいとか、せめて死罪は免されて遠流に処して欲しいなどと書いてあったという。また返書は比内(ひない)あたりに落として欲しいとあったので、試しに捨て置いたところ、その様子をうかがっている武者があらわれたので、これを捕らえて泰衡の居所を詰問した結果、いま比内郡内にいることが確実となった。
 九月二日、頼朝は平泉を出て、前九年合戦以来、源氏にとっては因縁の場所である厨川柵を目指して出発した。『吾妻鏡』は、頼朝が、その地で頼義が貞任の首を挙げたことを思い、この佳例にならって、厨川柵でまた泰衡の首を獲(え)たいと内々に考えていた、と記している。
 四日には志波郡に入り、平泉政権の北方支配の重要拠点である比爪(ひづめ)館を陥とした。ここを守る俊衡(としひら)法師は、自ら館に火を掛けて奥地へ逐電(ちくでん)したという。
 この日、頼朝は陣岡蜂社(じんがおかはちしゃ)(写真99)に陣を構えた。陣岡とは、かつて坂上田村麻呂・八幡太郎義家が陣を構えたところと言い伝えられ、地名もそれに由来するのであろう。このあたりの原野は、大軍を結集するのに好適な場所である。ここに新たに北陸道を攻め上った比企能員(よしかず)らの軍勢も到着し、『吾妻鏡』によると総計二八万四〇〇〇騎にのぼる盛大な馬揃絵巻が繰り広げられたという。

写真99 陣岡蜂神社に建つ陣跡を示す標柱
(岩手県紫波町)

 六日、ここへ、河田次郎によって、泰衡の首も届けられることとなった。泰衡は、三日に糟部(糠部)から信頼していた譜代家臣の河田次郎の本拠、肥(比)内郡贄柵(にえのさく)に立ち寄ったところ、そこで河田次郎の裏切りに会い、あっけなく最期を遂げてしまったのである。時に三五歳(史料五三四)。その首が陣岡の頼朝のもとに届けられると、実検のうえ、頼朝は前九年合戦の安倍貞任の例にならって長さ八寸の鉄釘でそれを獄(ごく)にかけたという。ここに奥州合戦は終り、平泉藤原氏は滅亡したのである。なお河田次郎も主君に対する譜代の恩を忘れたとの責めを負わされ、斬罪に処せられた。
 八日には、頼朝は「奥州追討」終了の書状を京都に送ったが、それと入れ違いに、翌九日に京都から陣岡の頼朝のもとへ、「奥州追討」の大義名分を与える口宣案が届けられた。その日付けは頼朝の鎌倉出発の時点まで遡(さかのぼ)って七月十九日となっていた。ことここに至っては、京都の朝廷も頼朝の行動を認めざるを得なかったのである。大庭景能の策は見事に的中した。こうして頼朝はすべての懸案を解決したのである。