平泉から南下を続けたさしもの兼任も鎌倉方の総力戦によって、二月中旬には栗原一迫(いちはざま)(宮城県)でついに敗れ、兼任は五〇〇騎を率いて平泉衣川まで退いたが、ここも守ることができなかった。
兼任軍の残党は、北上川を渡って逃げ、「外浜と糠部との間にある多宇末井の梯(とうまいのかけはし)」に城郭を築いて抵抗したがそれもむなしく、やがて兼任は逐電して姿をくらましてしまった(史料五四〇・五四一)。多宇末井は現在の青森市浅虫と久栗坂(くぐりざか)の間の善知鳥(うとう)岬であるといわれている。『諏方大明神画詞』にみえる「前堂宇満伊犬」も同じ場所を指す地名である可能性がある(史料六一七)。
この逃走経路は、かつて前九年合戦のとき、源頼義が安倍頼時を背後から脅かそうとして、銫屋(かなや)・仁土呂志・宇曽利三部の夷人を安倍富忠に取りまとめさせたと『陸奥話記』にみえる地域であり、一部には北海道からの蝦夷も住む、内国化がもっとも遅れた地域であった。それゆえ恰好の逃走経路であったのであろう。
さてただ一人生き残った兼任は、花山・千福・山本と、ちょうど現在の秋田県を経て宮城県に出て、その伊治(これはり)城近くの、義経ゆかりの栗原寺まで逃れたところで、三月、きこり数十人に取り囲まれて、ついに斧で殺されたという(史料五四二)。ここに奥州合戦の余燼は完全に収まることとなった。