それはともかくとして、こうした系譜意識のなかから、安藤氏の自己認識やその歴史的意義をどう読み取るかが、それぞれの系譜意識の成立時期の確定とからまって重要な問題となっている。とくに蝦夷系譜と安倍氏系譜との関係について、学界でも議論が分かれている。
安藤氏の系譜について述べた、おそらく現存最古の史料であると思われる『諏方大明神画詞』(史料六一七)においては、安藤氏を安倍氏の後裔である「東夷」として扱い、「蝦夷」とは系譜的に区別していることからすると、安藤氏を蝦夷の子孫とする系譜よりは、その蝦夷の統括者であった安倍氏こそが安藤氏の祖であるとする系譜のほうが古く、より一般的であった可能性もあるとされる。
この立場からすれば、松前藩の創成を物語る『新羅之記録』が、蝦夷の子孫である安藤氏が津軽を押領しているという説話を採用したのは、筆者松前景広が、自らの先祖による「えぞが島」の安藤氏からの簒奪(さんだつ)、すなわち下剋上を正当化する(安藤氏は朝敵のままであったほうが都合がよい)という意図がそこにあったためで、これは後世の改変であるということになる。
しかし『諏方大明神画詞』より以前に成立していた、妙本寺本『曽我物語』(史料一一五六)にみえる安日伝承が、いつ安藤氏系譜に取り込まれたかについては、史料的にまったく明らかではない。『曽我物語』や『諏方大明神画詞』に描かれた中央の意識が、北奥の地においてどのように語られていたのかについては、これはかなり難しい問題である。
また安倍氏自身が、(平泉藤原氏のように自称したかどうかは別として)蝦夷の末裔(まつえい)と考えられていたとしたら問題はさらに別になっていく。
鎌倉期に安藤氏が就いたという「蝦夷管領」職(詳しくは後述)についても、早くから、現地で蝦夷の管轄に従事するものは蝦夷でなければならないという強烈な蝦夷系譜づけが、国家政策上なされていた可能性も高い。とすれば、このことは安藤氏の系譜認識形成に大きな影響を与えていたであろう。
安藤氏の末裔である秋田氏が、近世に一時期使用した「伊駒」姓も、日本神話はもとより、蝦夷の祖である安日・長髄説話とも密接に関係する。
もちろん安藤氏の蝦夷系譜づけが、こうした政策的措置である以上、平泉藤原氏の場合と同様、厳密に人種的系譜にこだわる必要はない。つまり、系譜が事実であるかどうかということはこの際、問題ではないのである。
境界の領主安藤氏には、常に、中央から蝦夷支配を任されたものというイメージと、そのなかでの(あるいはその一方での)自立的なアイデンティティがつきまとう。安藤氏自身による在地に向けた顔と中央に向ける顔、この二つの使い分けがあったことは間違いないところであろう。
蝦夷系譜意識が早くからあり、それを中央から蝦夷支配を任される際に利用したという場合、それはともに盾の両面をなす真実なのであろうが、本質の見極めはまだまだ難しいといわざるをえない。今後の学界での議論が待たれるところである。