これより先、建武二年七月に、北条時行(ときゆき)を旗頭に立てる北条氏残党の反乱(いわゆる「中先代(なかせんだい)の乱」)が勃発すると、足利尊氏は翌月には時行を破って鎌倉に入っていた。建武政権から離反した尊氏は、ここで北畠氏の奥州支配奪取を目指して、斯波家長(しばいえなが)を奥州総大将に抜擢した。この家長は、尊氏の鎌倉出発後は足利義詮(よしあきら)を補佐する関東執事にも任ぜられている。
また建武四年二月には、駿河・伊豆の守護であった石塔義房(いしどうよしふさ)が奥州総大将として現地に入部した。
足利氏は北畠氏の管轄下にある国府の官僚を引き抜いたり、北朝側の除目(じもく)で家長を陸奥守に任じて、現地で顕家の解職を宣伝するなどして、奥州総大将を支えた。義房の奥州での活動は、幕府によって全面的に保証されていたのである。
その配下には、意外に斯波氏・石塔氏の一族被官が少ない。北畠氏の国府と同じように、鎌倉幕府以来、奥羽各地を掌握していた得宗御内人(とくそうみうちびと)クラスの奥羽の武士をそのまま配下として取り込んでいったらしい。たとえば斯波家長は、南奥には斯波兼頼(かねより)と佐竹一族の中賀野義長(よしなが)を、北奥には津軽に安藤家季(いえすえ)、比内に浅利清連(きよつら)を侍大将・合戦(検断)奉行として派遣している。
北畠氏側が陸奥守から鎮守府将軍へ、足利氏側が奥州総大将から陸奥守へと、それぞれ相手の制度的拠点を奪い合いながらも、結局は同一の奥羽掌握策をとっているわけで、中央政府にとっての奥羽の武士たちの重要性が知られよう。