観応元年(正平五年、一三五〇)十一月、足利尊氏との確執から弟直義(ただよし)が南朝に降り、観応の擾乱(じょうらん)が勃発した。これは南朝方立て直しの最後のチャンスであったが、結局は北朝方に破れ、北奥でも戦乱は終息していった。
しかし南部氏自体はその勢力を保ち、詳細は不明であるが曽我氏をはじめとした津軽方面の豪族を滅ぼして、津軽地方にまでその支配を拡大していき、やがて津軽地方をも制覇することとなった。
曽我氏が南部氏の前に屈することとなった具体的な経過は、それを伝える古文書がまったく残されていないため不明である。ただ本来、津軽曽我氏に伝来しているはずの所領や軍忠関係をはじめとしたさまざまな古文書が、現在は遠野南部家文書として伝来されていることから、南部氏に破れたことだけが明確に知られるのである。