しかし安藤氏嫡流も心底、建武方に忠誠を誓っていたわけではない。かなりしたたかな動きを見せている。したがって顕家も安藤氏の動向にかなり気をつかっていたようすが、残された長文の書状からうかがえる(史料六四一・写真156)。
写真156 北畠顕家御教書
たとえば安藤五郎二郎家季は、足利尊氏が惣地頭となった外浜について、その実質的支配の強化を目指していたらしい。顕家は家季の心中をかなり疑っている。というのも「北畠方の所務に対しては足利方より預かったと称し、足利方へは北畠の国府を楯にとって抵抗」しており、「外浜押領(おうりょう)の気配」が感じられるというのである。もっとも顕家は、他の安藤一族には謀反の兆しは少ないとみて、「家季一身の行動ならば、さしたることもないであろう」とも述べている。ただ「国の大事であるからよくよく思案をめぐらせるべきだ」と、かなり慎重な言動に終始している。それだけ安藤氏の動向が気がかりなのである。
そこで北畠顕家は、やはり外浜に拠点をもっていた安藤一族の外浜明師祐季(そとのはまめいしすけすえ)の懐柔に努めたりしている。この祐季もかつて「式部卿宮(しきぶきょうのみや)(亀山天皇皇子恒明(つねあき)親王)を自称する悪党にしたがって、最前まで建武方に抵抗」した理由を白状している。顕家は、「外浜明師がこうした行動をかつてとっていた以上、いきなり賞することはできないが、このように正直に申告したのであるから、きっと国方に忠節を尽くすつもりであろう」とし、南部氏に対し、「今後忠節を尽くすよう教訓を垂れよ」と指示している。これまた、安藤氏の動向が気がかりなのである。
結果的には、この指示を受けた南部師行による安藤氏説得などが功を奏したのか、家季も一族から離反したりせず、北条余党討伐に協力し、津軽方面での降伏者とその預り人を一覧にした「津軽降人交名注申状」(史料六五二・写真157)には、預り側にその名前がみえている。
写真157 津軽降人交名注申状