写真165 『聞老遺事』
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室町期、安藤氏を除いて、国人相互間に奥州探題を軸とした秩序(「奥州探題体制」)が形成されていたという。奥州探題は、室町幕府の地方行政機関であり、軍事指揮権や当時の奥羽の国人が熱望していた官途推挙(かんとすいきょ)権などがあった。この奥州探題体制には、奥羽のほぼすべての国人が組み込まれていたが、有力領主の中では安藤氏がただ一人そこからはずれていた。つまり、奥州探題体制が及ぶのは、南奥羽から南部氏の本拠である糠部郡までで、夷島・津軽・秋田という地域は、そことは異なる秩序が形成されていたものと思われる。安藤氏は、夷島・北奥羽の沿岸地域を中心として交易の主導権を握り、北方の産物を畿内へ送り、畿内・西国の産物を北奥にもたらすという海上交通の主役として活躍していたものと思われる。応永三十年(一四二三)に安藤陸奥守(盛季ヵ)が五代将軍足利義量(よしかず)に馬・鳥・鵞眼(ががん)(銭)・海虎河(ラッコ)・昆布を献上しているが(史料七六四)、こうした安藤氏の活動を反映しているように思われる。
さて、安藤氏が奥州探題体制に組みしなかったのは、自分たちの統治の正当性を強調する者を滅亡させた系譜を引く体制が奥州探題体制であったという意識があったからとも、この地域の動向が即外交・国境問題に直結するという点から、将軍の直属とされたからともいう。応永十八年の衝突は、こうした二つの秩序の衝突であったということができる。南部氏への葛西氏の支援は、奥州探題体制側からの支援であったということができよう。