御留守居組(おるすいぐみ)の三橋牛之介は「其方儀、平生不覚悟、侍の仕方これ無きにつき」ということで、弘前城内三の丸にある評定所(ひょうじょうしょ)で大目付(おおめつけ)の神源太夫から阿房払(あほうばらい)を申し渡され、ざんばら髪にして刀を取り上げられ、裸足のまま弘前城下から追放された(「国日記」元禄九年七月三十日条)。
「侍の仕方これ無きにつき」というのは、具体的な犯罪内容は不明であるが、元禄九年(一六九六)の夏は前年の大凶作の後に起こった大飢饉の影響で地獄絵をみるような世の中であり、身分にふさわしくない悪い行為をしたものであろう。
一方、農村では食料の強奪が起こっている。尾上(おのえ)村(現南津軽郡尾上町)の高無(たかなし)(水呑百姓)長兵衛と倅の久助は、天明四年(一七八四)二月二十六日の昼に、隣家の長八夫婦と長八の弟の三人が田圃へ出かけている間に、留守をしていた長八の老いた母と息子の亥之助を撲殺して籾と蕎麦などを奪取した(同前天明四年三月一日条)。
天明期(一七八一~八九)は天明初年以来天候不順で、同二年は土用に入っても雨が降り続いて寒く、翌三年も八月中旬まで快晴の時がほとんどなく、霜が降りる状態で大凶作となった。餓死者が増え、毎日七、八人ないし一〇人がたちまち数百人となり、城下に約三メートル四方の穴を七ヵ所掘って埋めている。天明三年九月から四年六月までで死亡者総数が約八万人というから、津軽領内人口の約三分の一が死亡したことになる。長兵衛と久助に対する判決例が残っていないので、いかなる刑罰が科せられたのか不明であるが、日常は助け合って平和に暮らしている農村が、右のような大凶作の時には隣人が自分の生命を守るために、まさに鬼になっている状態が知られるのである。城下および周辺地域でも、このようなことは起こりうる世相であった。