施行小屋

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そこで藩では飢えに苦しむ者たちを救済するための緊急の対応策として、城下では和徳町の町外れに五間に四〇間(約二〇〇坪)の施行小屋を建て(「国日記」天明三年十月三日条では後潟組・飯詰組でも建てている)、一人一日朝夕六勺(粥ヵ)の炊き出しを行った。その後、困窮者が続々と集まってきて二〇〇〇人ほどに膨れ上がった(同前天明三年八月二十八日条、『記類』上)。
 このように、食物を求める人々が殺到してくると、藩では収拾がつかなくなると考え、和徳町の施行小屋を閉鎖し、総人数二七五〇人に対して一人につき米一升と銭一文目ずつを与えて帰村させた。それにもかかわらず、夕方になると一〇〇人ほど再び戻ってきて、帰村の説得に応じようとしなかった。これは村内の親類・縁者による救済や、村政機による救済が不可能になっていることを示しており、他藩領に脱出する以外には、城下に再びやってきて藩の救済に頼るしか方法がなかったからである。
 藩ではいかに救済人数を減らすかという方向で、新たに楮町(こうじまち)に非人小屋(後に施行小屋となる)を建て、乞食手の取り扱いにして一人一日に二度三勺ずつの粥を炊き出した。もし数千人に増加した場合には、ひき割り大豆を混ぜた三勺の粥にする予定をも立てていたのである。この非人小屋の規模は、小屋掛の建坪が三間に七間の二一坪で、焚出所の建坪が二間に三間の六坪であった。収容された人数は男女合わせて二三〇人ほどであったが、夕方になってしだいに増え、正確な人数は不明という状態になっている(「国日記」天明三年九月四日・同九月七日条、菊池勇夫『飢饉の社会史』一九九四年 校倉書房刊)。

図15.施行小屋