勧進能

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元禄十四年(一七〇一)四月十八日から七日間、大工町で勧進能が行われる予定であったが、十八日は雨天のため翌十九日から始まった(「国日記」)。藩士の見物も自由とし、町奉行からは留守宅の火の心の注意が出された。見物数と入場のための関札が「国日記」に記されているが、見物数は概数で関札は初日の分が記されていない。それにしても、一万人を越す見物人が集まったという(表8)。
表8.勧進能の見物人数と関札数(元禄14年)
日 付見物人数関札数
4月19日1,300
4月21日1,6001,302
4月22日1,8001,674
4月23日1,9001,708
4月24日1,6001,500
4月26日1,7001,508
4月28日1,000868
10,9008,560
注)国日記」元禄14年4月より作成。

 ところが、諸経費が予想以上にかかったことから、能役者より追加二日間の興行願いが出されて認められた。この二日間の見物数は記されていない。勧進は本来は寺社の復興のために行われるが、この時の興行で得た利益がどこへ寄進されたか、また、江戸から来た能役者が加わった能の演目も明らかでない。この興行は藩主・家老まで報告されていることから、藩庁の強力な後援で行われたことがわかる。