寛政八年(一七九六)二月、弘前に来遊した菅江真澄(すがえますみ)は、「つがろのおく」に南溜池を次のように書いている(『菅江真澄全集』第三巻 一九七八年 未来社刊)。
三十日 そことなう出ありきて、蓮光山大円寺とて古儀の真言をこなふ寺の杉むらに、五層の浮図(塔)のありける下つかたは、ひろのゝやうに水もあらねど、鏡の池とて、いと深かりしかど、二十とせの昔よりあせて、いまは、水もかれはてると人の語る。げにやあらん、そのかたちはなくて、はしも高くところどころにかけ渡し、風情もあれば、花も盛ならん頃はわきてよかりしにやと、
おもひやる花の悌いろふかく池の鏡にうつし見し世を
おもひやる花の悌いろふかく池の鏡にうつし見し世を
右の記事によれば、菅江真澄がみたときの南溜池は既に二〇年以前から池水が枯渇していて、池としての景観は喪失していたらしい。しかし南溜池を「鏡の池」と呼んでおり、また「そのかたちはなくて、はしも高くところどころにかけ渡し、風情もあれば、花も盛ならん頃はわきてよかりしにやと」と述べており、景勝の地であったことは間違いない。ビジュアルな資料として南溜池を描いた、雅帖「蓬か嶋(よもぎかしま)」(弘図郷)の南溜池の図は、「安政ノ度鏡ノ池春景」であるという。また同雅帖の奥書(大正六年六月)には、竹谷水魚庵の描いたものであって、「鏡の池の実景」であると断っている。この風景画は幕末のものではあっても、南溜池の実相をかなり正確にとらえていると思われ、この図からしても南溜池は相当な景勝地だったようである。藩主もこのようなすばらしい景観を愛(め)でたらしく、たとえば文化十三年(一八一六)には、九代藩主津軽寧親(つがるやすちか)が家臣たちを連れて、南溜池へ赴いたという(「国日記」文化十三年六月二十日・七月八日・閏八月三日条)。また天保期において、子鯉二万四〇〇〇匹余りを放流した背景には、藩主が南溜池において網を入れ「御漁」をした際にまったく不漁であったことがあり、このように藩主が南溜池において「川狩」等と同様の、遊びとしての漁をすることがあった(同前天保三年七月一日条)。
図37.南溜池を描いた鏡ノ池春景