このとき、上陸を知った箱館府では、派遣されていた福山・大野藩兵と、松前・弘前藩兵、そして箱館府知事の兵力を既に峠下・大野・川汲峠へと配備していた。
そして、十月二十二日、蝦夷地における旧幕府軍との最初の戦闘が始まった。戦いの口火を切ったのは、弘前藩兵だった。木村隊はこの日、箱館府より七重村への出張を命じられた。そこで二小隊を引き連れて五稜郭(ごりょうかく)を出発し、夕刻に同所へ到着。また、弘前藩の二小隊と松前藩兵が大野村へ到着していた。二十二日夜、旧幕府軍の使者の軍が峠下村に宿営したのをみて、同夜半に弘前藩兵らが夜襲をかけたのである。
しかし、使者として先発していた旧幕府軍には、歴戦を重ねた大鳥圭介隊が合流したこともあって、政府軍は苦戦を強いられることとなり、七重村まで退却した。二十三日には、大野村に陣を敷いた松前藩兵も敗戦し、七重村で防御を固めていた兵も大川までの撤退命令を受けた。
二十四日、本道を箱館府の大野藩兵が、中道を箱館府の福山藩兵が、そして山道を弘前藩兵が進発し、七重村で銃撃戦となった。しかし、旧幕府軍の遊撃隊(ゆうげきたい)・新撰組(しんせんぐみ)などが最後には接戦に持ち込んだため、五稜郭への撤退を余儀なくされたのである。一方、沿岸沿いを進んでいた土方歳三率いる旧幕府軍勢も川汲峠で箱館府兵を破って峠を越えた。
なお弘前藩では、二十三日の戦いにおいて討死二人、負傷者三人、行方不明一人、二十四日には討死二人、負傷者三人、合計一一人の死傷者があったと報告されている(資料近世2No.五五四)。