一方もう一つのルート、すなわち、二股口方面の戦いはどのように展開したのであろうか。旧幕府軍は土方歳三の指揮のもとで、台場山を本陣、天狗岳(てんぐだけ)を前衛として守りについた。軍監駒井政五郎率いる政府軍は四月十日江差を発ち、十一日より天狗岳攻略を開始した。天狗岳から本陣のある台場近くまで進んだ政府軍と旧幕府軍の間では激しい銃撃戦となる。この銃撃戦は翌日も続いたが、二十四日には、五稜郭からの応援部隊が政府軍を不意打ちして接近戦となり、政府軍は敗走し、駒井を失うことになった。弘前藩は八木橋佐太夫(やぎはしさだゆう)隊・浅利万之助隊が参加しており、その戦果および一〇人の負傷者があったことを報告している。この時の戦いでは結局、政府軍はそれ以上の進軍はあきらめ、二十五日、天狗岳に滞陣を決めた。
そして、四月二十九日、箱館への進路を開くため、まず茂辺地への攻撃が始まった。旧幕府軍も大鳥圭介が指揮をとり、死守の構えをみせたが、ここでも海上からの援護射撃が功を奏した。甲鉄・朝陽が沖から陸上へ砲撃を行ったのである。続いて矢不来(やふらい)辺りでも海陸両方からの進軍を続けた政府軍のため、さらに後退せざるをえなくなった。旧幕府軍では榎本武揚も有川(ありかわ)村(現北海道渡島郡上磯町)で兵を激励するが、政府軍の勢いはとまらず、ついに旧幕府軍は夜になって五稜郭まで後退した。この大敗のため、二股口を守っていた旧幕府軍も挟撃を避けるため五稜郭へ退却した。したがって、とうとう政府軍の標的は五稜郭・箱館付近のみとなったのである。進軍には加わるものの大きな武功を逃していた弘前藩では、この日の戦いで三中隊が出撃をし、矢不来等の台場を攻略するという功績で有川村までの道を開いた。ここにきてようやく政府参謀からも評される働きができたのであった。しかし、その代償として弘前藩では三人の討死、二八人の負傷者が出たことを報告している。そして、この矢不来の戦いは、両軍の命運をかけた大きな戦いでもあったといえよう。
その後何度か旧幕府軍からの反撃が行われるが、大勢が動くまでには至らず、政府軍は青森からの物資補給を待ったうえで、五月十一日、箱館への総攻撃を決定した。