年越の料理と七草粥

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これまでみてきたように、食事をする際にどんな料理が食膳に並べられていたのか、具体的にはほとんどわからなかったが、『弘藩明治一統誌月令雑報摘要抄』(資料近世2No.二四八)に、文政期(一八一八~三〇)における四民の年越しの料理が記されている。四民とあるので藩士に限らないが、弘前城下の家庭での祝膳であり、整理すると次のようになる。
 ○上流家庭では
皿―鱠(なます)、鱈(たら)の焼物あるいは金頭魚(かながしら)
平―氷(凍)豆腐(こおりどうふ)、蒟蒻(こんにゃく)、日和貝(ひよりがい)あるいは帆立貝(ほたてがい)
汁―氷豆腐
小皿―鮑(あわび)あるいは生海鼠(なまなまこ)、保夜(ほや)(海鞘)、鰈小串(かれいおぐし)
 ○中流家庭以下では
皿―大根鱠に鮭塩引(さけしおびき)あるいは鰰(はたはた)
平―人参(にんじん)、氷豆腐、牛蒡(ごぼう)、鮭塩引あるいは鰰
汁―銀杏(ぎんなん)、大根、田作魚(ごまめ)(片口鰯を真水で洗って干したもの)
小皿―鱈の芹和合(せりあえ)、牛蒡の田麩(でんぶ)、田作魚入れの黒大豆

 これらの中で、皿は小皿よりも少し大きいひらたい皿であろう。平は平椀のことで浅くて平たい椀のことである。
 右の両家庭での献立にはそれぞれ飯と酒がつく。年越しの祝膳と結婚の祝膳は異なるであろうが、一汁二菜~一汁三菜の規定と実態はこのようなものであろう。
 次に七種(ななくさ)(草)粥についてであるが、七草は一般に春の七草(芹・なずな・御形(ごぎょう)・はこべら・仏の座・鈴菜・すずしろ)を指すが、民俗行事としては正月七日に七草などを入れた粥を食べる行事をいう。
 津軽弘前藩の場合は、「国日記」明和三年(一七六六)十二月三日条によれば、藩主が七種(草)のお祝いに使するために、「ねぎ・もやし・青菜(あおな)・せり・蕗の頭(ふきのとう)・鈴菜(すずな)・はこべ」が大鰐(おおわに)村(現南津軽郡大鰐町)から献上されている。
 ただし、右より古い「国日記」正徳五年(一七一五)正月六日条には、「豆もやし・せり・夏(なず)な・青(あお)な・葉にら・ねぎ・婦きのとう」の名称がみえるだけで、どこから献上されたのかは不明である。
 両者を比較すると、二種類は異なるが残りの五種類は共通している。
 一方、津軽弘前藩の下級藩士斎藤正孝が安政三年(一八五六)に記述した「私家年中躾帳(しかねんちゅうしつけちょう)」(『日本都市生活史料集成』五 一九七六年 学習研究社刊)によれば、七種(草)粥の材料として、「もち せり ふきの額(頭の誤カ) ねき 大こん わらひ たかな まめもやし 等也」と記されている。
 したがって、藩主へ献上された七種(草)の種類と、下級藩士の家で使された種類はそれぞれ異なっていた。野菜類が手に入りにくい冬期には七種(草)の種類は異なっていても、藩士の家庭では正月七日に七種(草)粥を作って食べていた。

図95.七種御囃子御飾付之図