参府に先立ってさまざまな準備が必要であった。四代信政が延宝三年(一六七五)三月十五日に参府した場合をみると次のようになる(小館衷三『津軽藩政時代に於ける生活と宗教』一九七三年 津軽書房刊)。
一月二十三日に江戸へ飛脚を立て、幕府に参府の伺いを提出し、二月二十日ころ許可の連絡が来る。二月二十九日にお供の馬具・備馬(そなえうま)を準備し、三月に入ると準備で多忙となる。三月一日、信政は詰座敷(つめざしき)に出座し、お供の者を正式に任命、続いて不在中の家訓(かくん)・諸注意・道中法度(はっと)を申し渡す。津軽玄蕃(げんば)を城代(じょうだい)に命じ、不在中の警備の責任者とする。
続いて宿取りの者は出発一日前に申し渡し、関札(せきふだ)(宿札(やどふだ)のこと。大名や幕府役人などが本陣や脇本陣に宿泊する際、門や宿の出入口に木や紙に宿泊者名を墨書して掲げた)担当の者と馬触立は十日前に出発するよう申し渡す。先馬(さきうま)は九日前に出発の命令を出す。三月五日にはお供の家臣に支度のため十日間の休暇を与える。また近日中参府となるので、碇ヶ関の山中の雪切りや途中の橋などを修理させる。出発の前日には長勝寺・薬王院(やくおういん)(現市内笹森町)へ参詣し、参府する決意の報告と領内および道中の安全を祈るのである。