江戸時代を通じて弘前城下の質屋の数が、どれくらいあってどのような変遷があったのかはまったく不明である。元禄三年(一六九〇)の「松井四郎兵衛留書」では、本町・亀甲町(かめのこまち)・茂森町(しげもりまち)・土手町(どてまち)・新町(あらまち)・駒越町(こまごしまち)・東長町(ひがしながまち)・紺屋町(こんやまち)・和徳町(わとくまち)に合計二九軒数えられる(資料近世1No.一一五〇)。「国日記」寛政元年(一七八九)五月十日条には、本町では三軒になったとみえているが、存在していた全軒数はわからない(右の「松井四郎兵衛留書」では本町に五軒あった)。「文化二年八月改弘前町中人別戸数諸工諸家業総括 全」によれば、城下全体で一七軒知られ(前掲『弘前城下史料』上)、元禄期の二九軒よりは減っている。
利息は「国日記」によれば、二分~三分であった。
城下の質屋は、生活の苦しさによる藩士の利用が多かったと推定されるが、両者間に問題が多く生じてくるのは天明期(一七八一~八九)以後であり、それは天明・天保の大凶作とも関係があろう。
質屋側からみた両者の関係については本章第一節四を参照いただきたい。