西坂下御紙漉所

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国日記」の紙漉に関する最初の記事は、寛文四年(一六六四)六月十日、国吉(くによし)村鳥井野(とりいの)村に楮立野を開いたこと、同十二月八日に紙漉七右衛門の子が紙をよく漉き、楮仕立てに精を出したので、褒美として米三俵を頂戴したことを伝えている。
 七右衛門親子の仕事場は、西坂下(現市内馬屋町・藤田記念庭園)の岩木川から和徳堰が分流する辺りで、流人柳川調興(やながわしげおき)の屋敷の南隣りにあった。寛文十三年(一六七三)の「惣屋敷絵図」(弘図津)に相当面積の紙漉所敷地が記されているが、延宝四年(一六七六)の城絵図では、規模が縮小されて三六六坪になっている。そのために、紙漉喜兵衛が新たに清水の豊かな富田に紙漉町を開き、御を勤めることになった。「松井四郎兵衛留書」(資料近世1No.一一五〇)に「カミスキハダチ」として、紙漉頭喜兵衛はじめ一〇軒の屋敷が記されている。
 西坂下御紙漉所では、七右衛門が仕事を続けることになる。天和二年(一六八一)十月、城中で催された御能見物を許された諸職人の中に、御紙漉屋喜兵衛と御紙漉白川七右衛門の名前がみえる。元禄八年(一六九五)、七右衛門が勤め方不行届きを咎(とが)められ、家屋敷を召し上げられ免職を下令されたので、西坂下御紙漉所は姿を消した。

図131.七右衛門の西坂下紙漉所