学びの光景

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稽古館での授業形態は学習段階に応じた方法がとられていた。生徒はまず学習の進度に応じて、素読生会読生に分けられた。素読生は養正堂において句読を受けて読み方のみを授かった。教科書の内容に立ち入るよりは、漢文を白文で読めるようになるのが主眼であり、暗誦できるくらいに馴れるのが本旨であった。その教師は「典句」(学士、二教の下位で素読を授ける教官)と呼ばれた。十五、六歳ころになって考査に合格して会読生に進んで初めて志学堂において、読みと意義内容を教えられた。十五、六歳を越えて入学して来る場合も、まずは素読の課程から始めなければならなかった。会読に進級するころから、大小を腰に帯び、羽織で折り目正しく、応接から言語まで急に大人びてくる。本格的に武道の稽古をしだすもこのころからであった。
 入学間もない素読生の一日は、おおよそ次のようであった。生徒たちは毎日午前八時までに登校する。登校するや名前を記帳し、出席を明らかにする。次に担任の典句に挨拶し、年齢順に定められた席につき、始業の時間を静かに待つ。城中の太鼓の合図とともに、読書稽古が始まる。素読生は二五人を一班とし、典句一人が担当した。典句による教授は個人指導であり、素読生を面前に座らせて前日授けたところを復習誦読させ、それができていれば新しい節の句読を授ける。一日に教える一節の量は生徒の学習進度・能力に応じて一〇字から五〇字が普通であるが、まれに怜悧な者には四〇〇字ほどを授けることもあった。典句には、大声でがなり立てたりすることなく、ゆっくりとはっきりとした声で句読を授け、物覚えが悪くても叱責することなく諄々(しゅんじゅん)と反復して教えることが求められた。生徒が一応誦読できるようになって次の生徒に交代するという個人指導であったので、自分の番を待っている間は懈怠(けたい)が生じやすい。そこで、一班に五人ほどの伍長を選抜して、下読みの指導に当たらせた。
 素読が十時に終わると、次は十二時までが書道の時間である。書道の教授方法も素読の場合とほぼ同様で、典筆(素読の典句に当たる)が交互に生徒を呼んで面前で字を書かせ指導に当たり、その間は伍長の指導のもと各自手習い稽古に励んだ。
 正午になるといったん帰宅するなり、学寮に戻って食事をとるなりして、午後二時に再び学校に登り、二時間を素読の復習に充て、四時に下校した。
 寮生活での規則(「行儀記」)は次のようなものであった。学寮は当時「学校御長屋」と呼ばれ、裏門側の西に位置し、各室八畳でその数二〇余り、各室に七、八人を収容した。
一、毎朝六ツ時前に起床、洗顔し頭髪を梳(くしけず)り、学寮を掃除し、それから学堂に出て業に励むべきこと。

一、三度の食事は合図をもって食堂に入り、学業・格式の尊卑に関係なく、年長者が上座につくべきこと。

一、学問切磋琢磨以外の雑談は禁止。猥談・碁将棋・俳諧等も厳禁。

一、学校での雅楽以外の散楽等は禁止。

一、朋友の交わりは信義を守り、長幼の次第を正すべきこと。無礼・争論があれば学校目付に申し出ること。申し出ないで口論に及べば退学。

一、学寮にあっても常にを着のこと。

一、病気の者が出た場合は慇懃(いんぎん)にし、医薬等学校目付に申し出て、看護するように。

一、沐浴は月に六度、その日はいつでも代わるがわる自由に入浴してよい。髪、月代は入浴の度に手入れをするように。

一、学校中での飲酒はすべて禁止。

 学業不振者、素行不良の者には退学処分が下された。