文化五年(一八〇八)二月二日、学校を当分廃止し、規模縮小のうえ、城中三の丸屋形を修復して学問所とし、教科目を経学・書学・数学に限定する旨の発表があり、同年十月八日に移転した(資料近世2No.三〇七)。同時に学官員も創立当時の八〇人から三〇人に削減され、またこれまで支給されていた家格外の役禄に伴う加給も停止となった。学校経費はおよそ三〇〇〇石から三〇〇石の一〇分の一に縮小された。うち続く凶作と蝦夷地警固の派兵で財政が成り立たなくなってきたのがその主要因であった。学校の旧建物は文化八年(一八一一)取り壊し、その資材は本行寺、法立寺、大円寺、貞昌寺に払い下げられた。江戸の学館はこれより先の文化二年に既に廃止となっている。