嘉永六年(一八五三)、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが開国要求の国書を携え軍艦四隻を率いて浦賀に来航すると、対外的危機感は一気に高まった。これを契機に安政期には水練稽古、武芸がしきりに奨励された。異国船が浦賀に渡来して緊迫した状況にもかかわらず、怠慢の者がいるが、剣術・槍術とも流儀にかかわらず面試合稽古するよう、怠慢の者には処罰も辞さないといった旨の布告が出され、文久二年(一八六二)二月二十四日には稽古館にも「浮華虚飾に流れず、実践実用を宗とし」、武芸に励み「文武兼備国家有用之人材」を多く出すようにと通達された(資料近世2No.三二〇)。そして同年の末には稽古館跡に武芸修練所(翌年「修武堂」と命名)を新築し、流派にかかわらず「実用」に役立つような武芸の稽古を奨励した。翌文久三年には、武芸所内に砲術稽古所が設けられ、時勢に応じて西洋大砲・小筒・小銃を専ら稽古することが求められた。