明治五年五月、漢学校と英学校を合併する議が起こり、追手門外の旧藩軍事局の建物(寛政八年稽古館の創設場所)を合同の校舎としてここに移転し、弘前漢英学校と称した。しかしその三ヵ月後の同年八月三日の文部省の旧藩立学校廃止の布令により、廃校の瀬戸際に立たされた。このような状況下で、かつて藩命で慶応義塾に学び帰県した菊池九郎は、漢学教師兼松成言と英学教師吉川泰次郎と諮(はか)り、成田五十穂(いつほ)、吉崎豊作、榊喜洋芽(きよめ)と協議し、私立学校創設の立案を津軽承昭に具申した。承昭からは開学の資金として五〇〇〇金が提供された。かくして稽古館跡に私立東奥義塾が誕生するはこびとなった。東奥義塾は漢・英の二学部に新たに小学部を設け、士族だけではなく一般庶民の子弟や女子の入学も認め、四〇〇人を収容した。